聖武天皇の時代に創建、その際からの矢形餅、根強い火除けの信仰
[住所]京都府久世郡久御山町下津屋98-1
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室城神社(むろきじんじゃ)は、京都府久世郡久御山町下津屋にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 山城国 久世郡「室城神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。

木津川右岸堤防に沿って細長く伸びた下津屋集落の東寄りに鎮座する。津屋の森と呼ばれる1100坪あまりの広い境内は、たえず小鳥のさえずりが聞こえる。

『久世郡祭神記』によれば、奈良時代の神亀年間(724年-729年)、聖武天皇の時代に近国に大洪水があり、民衆が飢えた時、勅して天神地祇を当地に奉斎したのが起源。

あるいは、同じ頃、悪疫が流行したため、その退散を聖武天皇が当社に祈願、弓矢を献奉した。これが今も春祭に弓矢をかたどった特種神饌、矢形餅が供献される形で続いている。

『神社要録』によれば、社号の「室城」は室樹のことで、当社は当地を開拓した豪族の榎室連(えむろのむらじ)の祖を祀ったものだという。

久世郡水主村に住んでいた古麻呂の家の門前に榎の大樹があり、雨も漏らさない室のようであったため、聖徳太子が当主の古麻呂に榎室連という姓を授けたと伝わる。

御祭神は現在までに、邇邇芸命須佐之男命大雀皇子命迦具土之命の4柱。

『延喜式神名帳』では一座であるが、もともとの御祭神は不明。あるいは、榎室連の祖神を火明命とする説もある。

もとは室の木と呼ばれる地にあったが、江戸時代初期の寛永7年(1630年)、木津川の堤切れにより、当社の壮大な社殿は諸記録とともに流出。

その後室の木よりほど近い現在地に移され、再建された社殿は、大幅に規模が縮小され、今なお仮殿であるといい伝えられている。

境内には明治初年(1868年)まで、真言宗泉涌寺の末寺である護国山神宮寺という宮寺があった。

明治6年(1873年)9月、村社に列し、明治10年(1877年)には式内社に認定された。

現在に至るまで、式内社「室城神社」は当社以外の論社はないとされるが、水主神社の境外摂社に同名神社があって、当社との関係が指摘される場合がある。

また、他の論社として、城陽市平川東垣内の平井神社、宇治市白川娑婆山の白山神社が挙げられる場合があるが、有力ではないようだ。

例祭は10月9日。先述の春祭における矢形餅神事(やかたもちのしんじ)が有名。

境内末社に、住吉社(住吉三神)・稲荷社(倉稲魂命)がある。

この住吉社に関しては、下津屋が古くから木津川の舟運の津として発達した集落であり、津の守護神だったとされる。

参道の中ほどに、明治42年(1909年)5月建立の愛宕常夜燈がある。愛宕社があるわけではないが、当社御祭神の迦具土之命が意識されたものらしい。

また、本殿前には天明7年(1787年)3月の「牛頭天王」とある石燈籠が、社務所近くには、文政13年(1830年)銘の弁財天石祠がある。

当社は長く火除け、疫病退散、水難除けの信仰があったことがうかがえる。

【ご利益】
火除け、病魔退散、水難除け
室城神社 京都府久世郡久御山町下津屋
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