もとの多賀神社、日本初の猿楽の記録、桃山期の本殿、社叢
高神社 京都府綴喜郡井手町多賀天王山
[住所]京都府綴喜郡井手町多賀天王山1
[電話]-

高神社(たかじんじゃ)は、京都府綴喜郡井手町多賀天王山にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 山城国 綴喜郡「高神社」に比定される式内社(小社、鍬靫)。近代社格では郷社。

多賀集落の東南に位置する天王山に鎮座。本殿は北西に向かい、多賀集落を見守るように建てられており、多賀郷に住む人の信仰を集めてきた。

創立は第29代欽明天皇元年(540年)、東嶽に御神霊が降臨したことにより、社宮を建てて奉斎したことに始まる。

なお、北側の当社に対して、この山の南側に鎮座する玉津岡神社にも似たような降臨草創譚が伝わっている。

その後、奈良時代になり、集落の発展に伴い、下記の三社が相次いで建立され、三社体制になった。

・和銅4年(711年)、東村宮として字川辺に多賀明神社
・神亀2年(725年)、字西畑に久保村宮
・神亀3年(726年)、字綾の木に谷村宮

聖武天皇の天平3年(731年)、勅願により高御産日神の名より「高」の字を採り、多賀神社が現社号に、多賀村が高村に変更された。

平安時代になり、元慶2年(878年)8月、谷村宮龍神祭の時に死者の出る喧嘩騒動が起こり、その後相談が重ねられた。

仁和元年(885年)、三社が現在地の天王山に統合され、三村が共同で奉斎することになった。

この間、宇多天皇(在位:887年-897年)真筆の「大梵天王社」の額と称号が下賜され、その後長きにわたり高村の大梵天王社と呼ばれた。

ちょうど『延喜式神名帳』の頃、醍醐天皇(在位:897年-930年)の御代には、神輿が三基あったと記録にある。

平安時代末期の治承4年(1180年)5月、源平の合戦の一つ、宇治川合戦の際、平家軍の兵火にかかり、当社本殿が炎上、文治2年(1186年)8月に再建された。

鎌倉時代になり、承久3年(1221年)、いわゆる承久の乱の大乱の後、高村が再び多賀村に、当社名も多賀神社に改正された。

後嵯峨天皇の寛元3年(1245年)、霊顕あらたかな神として「正一位勳一等」の神位と、「大明神」の称号が下賜された。

これ以降の極めて詳細、かつ大量で、歴史研究上も有意な当社文書が伝わる。京都大学国史研究室により「高神社文書」目録が作成されている。

それによると、文永9年(1272年)、社殿改築の時に猿楽が奉納されたとあり、これは日本で最初の猿楽に関する記録の一つとなっている。

南北朝時代の建武元年(1334年)、深栖判官の乱暴狼藉により社殿が炎上。室町時代になり、応永11年(1504年)と永正5年(1508年)に造営の記録が残る。

戦国時代の永禄・元亀年間(1558年-1572年)、兵火により社殿が大破したが、江戸時代初期の慶長9年(1604年)に再建。これが現在の社殿である。

本殿は、あでやかな装飾が施され、桃山時代の絢爛豪華な建築を今に伝えるもので、府の文化財に指定されている。

別当は真言宗の毘沙門寺。明治初年(1868年)の神仏分離令により廃寺となった。現在忠魂碑があるあたりに存在したとされる。

明治元年、大梵天王社、あるいは多賀神社と称されてきたのを現社号に改称した。御祭神は伊邪那岐命伊邪那美命菊々理姫命。例祭は10月16日。

境内摂社に14社あり、御祭神は、天照大神須佐之男命大国主之命応神天皇仁徳天皇仲哀天皇・稲荷神社・愛宕神社・八幡宮・春日神社・恵比寿神社・八王子神社・祈雨神社・聖神社がある。

鎮守の森は、京都百景の一つになっている。現在に至るまで、下記のように『万葉集』でも歌われた社叢を満喫できる。
巻3 277 高市連黒人覊旅歌
早来ても 見てましものを 山背の 高の槻群 散りにけるかも
【ご利益】
夫婦和合、子宝・安産、家内安全、リフレッシュ
高神社 京都府綴喜郡井手町多賀天王山NO2
【関連記事】
京都府の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、京都府に鎮座している神社の一覧