富岡八幡宮の旧地・元八幡、旧砂村新田、往時は美しい桜並木の参道
[住所]東京都江東区南砂7-14-18
[電話]03-3644-7315

富賀岡八幡宮(とみがおかはちまんぐう)は、東京都江東区南砂にある神社。近代社格では村社。以前はあったようだが、現在は、御朱印を受け付けていないという。

創立は、奈良時代の天平勝宝元年(749年)、藤原鎌足の孫、藤原豊成が下総守に任じられ下向の際、勧請されたことによる。

『新編武蔵風土記稿』によれば、この地は富岡八幡宮を初めて勧請した所であり、寛永年間(1624年-1644年)の初めに今の深川の地に移った。

富岡八幡宮の旧地であり、元八幡と呼ばれ、そこで寛文5年(1665年)に八幡を勧請し、奉斎したという。旧砂村新田の鎮守。

「神社明細帳」によれば、寛文5年開発の際に除地4反7畝10歩を拝領し、本社の旧殿をこの地に移したという。

砂村新田は、砂村新四郎が万治2年(1659年)に開拓した地であり、そのため彼の名字を村名にしたという。

別当は永代寺であるが、永代寺には当地が富岡八幡宮の元宮とは伝えていないという。

『御府内備考続編』によれば、「葛西志に砂村元八幡宮を当社の旧地なるよし記せども社伝にはなきことなり」とやはり富岡八幡宮の旧地という説を否定している。

『東京都神社名鑑』によれば、富岡八幡宮は寛永4年(1627年)、菅原道真の後裔といわれる長盛法印が霊夢に感じて八幡宮を創始することになった。

永代島周辺の砂州を埋め立て社地と氏子の居住地を開き、総じて6万坪という土地を徳川幕府より拝領したという。

『江東区史』によれば、富岡八幡宮には二体の八幡神像があり、一つは長盛法印が京都から持ってきたもの、もう一つは伊奈氏の家臣から奉納されたもの。

これらが富岡八幡宮に奉納される前、砂村の当地に置かれ、それから富岡八幡に移ったと考えられ、当地が富岡八幡宮の旧地という伝承が生まれたともされる。

享保年間(1716年-1736年)には、境内に桜、松あわせて3万本が植えられ、8代将軍徳川吉宗のお手植えとなる矢竹なども存在したという。

当時は元八幡のあたりから南に海が広がっており、境内も広く、自然の景観に恵まれた当社は江戸市民の行楽地として賑わった。

歌川広重(1797年-1858年)の「名所江戸百景」にも描かれた。

富岡八幡宮と区別するために「賀」の字を中に入れたという。明治43年(1910年)に砂村永代新田の田守稲荷神社を合祀した。

明治43年・大正6年(1917年)の水害、昭和20年(1945年)の大空襲により大きな被害を受け、戦後は仮宮を造営、昭和36年(1961年)に本殿などが再建された。

現在までに御祭神は、応神天皇(誉田別皇)・比売大神・宇迦之御魂大神と他5柱。

例祭は8月20日近くの日曜日。もとは本祭りが4年ごとに行われ、鳳輦が出御し、町神輿も出て賑わった。

しかし、4年に1度ではあまりに淋しいと、2年に1度、「仲間(なかま)まつり」が行われるようになった。

氏子家庭の繁栄と安泰を祈念するとともに、一層の連帯の輪を広げようというもので、平成19年(2007年)には壮麗な本社神輿が砂村囃子に先導されて修復後始めて担がれた。

砂村囃子は、享保年間の初め、金町の香取明神社(現 葛西神社)の神官能勢環が、農民に囃子を教え、それが近隣の農村に広まったものだという。

葛西囃子や神田囃子と同じく、江戸近辺の祭り囃子の一つで、大大鼓1、締太鼓2、篠笛1、鉦1で演奏する。

境内には、砂村新左衛門顕彰碑・砂村囃子記念碑・砂町の富士塚・出羽三山の碑・力石がる。

この富士塚は、区指定有形民俗文化財で、富士講「山吉講」によって、江戸時代後期の天保4年(1833年)までには築造されていたという。

吉田口・大宮口・須走口、宝永山、大澤くずれ、御胎内などを細かく模しているのが特徴。

当初は現在より30メートルほど北側に土盛で築山されていたが、昭和8年(1933年)の水害で破損したため、表面を溶岩で固めらた後、昭和37年(1962年)に現在地に移築された。

現在も「山吉丸す御水講」が活動し、山開きなどが行われている。

【ご利益】
厄災除け、安産、商売繁盛
富賀岡八幡宮 東京都江東区南砂
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