坂上田村麻呂に関する伝承、山口王子を合祀、「霊烏」の信仰
山口神社 和歌山県和歌山市谷377
[住所]和歌山県和歌山市谷377
[電話]073-464-5028

山口神社(やまぐちじんじゃ)は、和歌山県和歌山市谷にある神社。鎮座地は和泉山脈の南麓、和泉国から紀伊国へと抜ける雄ノ山峠近くに位置する。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 紀伊国 名草郡「伊久比売神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。

社域の中心には向かって左(西側)の日吉神社と右の春日神社が並立するが、日吉神社を本社とする。

社伝によれば、平安時代初めにはすでに創建されており、平城天皇の熊野行幸の時に勅使を立てて社殿を拡大したという。

また、付近には坂上田村麻呂の墓という「将軍塚」や、田村麻呂の五世孫という坂上五郎の居城跡と伝わる場所がある。

田村麻呂にまつわる伝承も多く、坂上氏の一族が戦勝を祈願して祭礼を行ったとも伝えられている。

社伝によれば、凶賊を退治に来た田村麻呂の送迎にあたった者が、「十番頭」と称して祭礼における重要な役を勤め、以後その職が引き継がれて江戸時代まで続いたという。

御祭神は伊久津姫命(いくつひめのみこと)で、どのような女神かは不詳。古くから安産の神として信仰されてきた。

『紀伊続風土記』は御祭神名に着目、証拠は乏しいと断りつつ、当社を式内社とした。

後に僧侶の浮屠氏が別当となって、神名を改めたり、他神を合祀したために、本来の姿を失ったのであろうとしている。

なお、式内社「伊久比売神社」の論社は他に、市内の市小路に式内同名神社がある。

社伝によれば、熊野街道沿いに位置するために、熊野詣の上皇や女院がしばしば立寄ったという。

南北朝時代後期の応安6年(1373年)には在地山口荘の地頭職であったと見られる山口明教により、地頭給田の中から1段が寄進された。

かつては神輿渡御や騎馬行列も行われ、賑わったという。

安土桃山時代の天正13年(1585年)、豊臣秀吉の紀州攻めにより根来寺などとともに兵火に罹って社殿、宝物、古縁起が灰燼に帰した。

神田もすべて没収され、祭祀も中絶したが、豊臣秀長によって、神領25石が寄進された。

慶長4年(1599年)から再建にかかり、その後和歌山城の鬼門の守護神として藩主である浅野氏や紀州徳川氏からの援助を受けて近辺随一の結構となったという。

その後、江戸時代を通じては社領2石を有するに過ぎなかったものの、「森樹蓊鬱として宮居粛整」たる大社の面影を遺していたという。

当時は「日吉春日神社」と称され、周辺6ヶ村の産土神とされた。祠官は紀伊国造家の分家である紀越後氏が勤めていた。

古来境内に「霊烏(れいう)」と称する雌雄2羽の烏が常棲し、よく吉凶を前示したという。

江戸時代には毎月朔日に「朔幣講」という村長が集まって祭事を行い、宴席を設ける習わしがあり、その際にはこの霊烏にも飯を捧げた。

五穀豊穣が約束されていれば速やかに来てそれを喰むが、天災や変事のある時には決して喰むことはなかったという。

また、当社に祈願する者も霊烏に御供を捧げ、それを喰むかどうかで応験の有無を判じたという。これらを「鳥ノ飯」と称した。

明治維新を迎えると、社名を「日吉神社」と改めて村社に列し、明治42年(1909年)には周辺(旧山口村)の無格社を合祀、現社号に改称した。

合祀したものの中には、市湯屋谷118にあった山口王子が含まれている。

現在までに、国常立命、国狭槌命、惶根命伊弉冊命正哉吾勝勝速日天忍穂耳命天津彦火瓊々杵命を配祀する。例祭は10月17日。

現在の氏子地域は和歌山市山口西、別所、落合、藤田、上黒谷、谷、湯屋谷、平岡、里、中筋日延の10部落。

境内社に春日神社(経津主命武甕槌命天児屋根命・比売神の春日四神)がある。他に、布魂神社、八幡神社、大年神社がある。

【ご利益】
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山口神社 和歌山県和歌山市谷
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