真野氏の祖神、神宮寺が現存、1月さんやれ祭、5月あばれ祭
[住所]滋賀県大津市真野4-7-2
[電話]077-572-1330

神田神社(かんだじんじゃ)は、滋賀県大津市真野にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

『延喜式神名帳』にある「神田神社(近江国・滋賀郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では県社

飛鳥時代の第41代持統天皇4年(690年)、彦国葺命の十二世孫である和邇部臣島務大肆忍勝などに真野臣の姓が授けられた。

同年9月、居館の傍らにある浄地普門山を宮居と定め、素盞嗚尊を鎮祭、間野大明神として奉斎されたという。

御祭神は、天足彦国押人命とその三世孫の彦国葺命。天足彦国押人命は、琵琶湖西岸の古代氏族、小野氏・和珥氏の祖。彦国葺命は、真野氏の祖にあたる。

当地は真野氏の根拠地であり、周囲には曼荼羅山古墳、春日山古墳などが点在する。

真野(まの)は、古くから開けた神気ただよう素晴らしい土地の意だという。『万葉集』をはじめ、種々の和歌集に真野を詠んだ歌が数多く見られる。
源頼政
近江路や 真野の浜辺に 駒とめて 比良の 高嶺の 花を見るかな
創建は平安時代初期、嵯峨天皇の弘仁2年(811年)4月。伊勢の神宮(伊勢神宮)の皇大神宮(内宮)の神田(みとしろ)があった地。

「みとしろ」は御戸代とも。そのため、当社も、「みとしろのかみのやしろ」とも呼ばれた。

当社から西へ1キロほどの真野普門町にも同名の神社があり、式内論社。当社が「下の神田神社」と呼ばれるのに対して、普門に鎮座する同名の神社は「上の神田神社」。

『近江輿地志畧』によると、普門神田神社は、当社から勧請されたという。『滋賀県神社誌』では、普門神田神社は当社から分離独立したものだという。

江戸時代には、神田大明神・伊豆大明神と称していたという。神階は正一位に達した。明治34年(1901年)、県社に列した。

当社の特殊神事、正月17日の「幸在(さんやれ)祭」は、「十七夜」とも呼ばれ、小字下河原から、水害により現在地に遷座した模様を再現したもの。

沢組・北組・中組の三部落の男子全員が、浄火を松明に点じ、19時過ぎに沢の藤の木に集合、宮元沢組より7人の太鼓組が鐘太鼓組に合せて「サンヤレ、サンヤレ」と囃す。

全員揃うと当社を目指すが、その途中も「サンヤレ、サンヤレ」と叫び、練り狂いながら参進する。

当社に着いた後に神事があり、宮元沢組は帰ると最後の大練を演じ、謡曲「四海波」を演じ終る。

また稚児祭も珍しい神事で、別名はあばれ祭。5月5日の春の大祭で、村座四組が交代で神事番につき、神事番は少年6人を選び、これを「コマ」と呼ぶ。

コマは特定の冠、裃を着け、鞭を持って、神榊、供物、供奉一同の参進の監視役を勤め、列の先頭を掌る。

御旅所での祭典の際、コマは献餅の奉仕をするが、役員衆より受け取る供物の榊、燈明、神酒、鏡餅、鰣の串焼、米飯などを石垣に叩き壊し、遠くに投げ飛ばす。

この乱暴の極みについて、役員衆はこれを咎めることはできず、コマのなすままに散乱・破壊した神饌を拾い集め、土砂の附着したままで献ずる。

境内社に二宮がある。棋神社とも。二の宮、八坂神社、天王社とも称された。御祭神は当社主祭神の天足彦国押人命の父にあたる第5代孝昭天皇と、須佐之男命。

当社境内には、珍しく神宮寺が現存し、不動明王を祀る。

【ご利益】
厄災除け、武運長久・勝運、五穀豊穣(公式HP
神田神社 滋賀県大津市真野
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神田神社 滋賀県大津市真野の御朱印