加賀国府の地、小松城・金沢城の鎮護社、春のお旅祭と秋の西瓜祭
[住所]石川県小松市浜田町イ-233
[電話]0761-24-2311

菟橋神社(うはしじんじゃ)は、石川県小松市浜田町イ-233にある神社。通称は、「おすわさん」「お諏訪さん」。参拝すれば、御朱印を頂ける。

『延喜式神名帳』にある「菟橋神社/兎橋神社(加賀国・能美郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社

創建は、飛鳥時代末期の慶雲元年(702年)とも、それ以前とも伝えられている。

御祭神は莵橋大神と諏訪大神。莵橋大神は産土神で、もとは莵橋郷の鎮守の神。小松城・金沢城両城の鎮護社となってからは、加賀国の守護神としても崇敬された。

諏訪大神は、建御名方命・八坂刀売命の夫婦神。父神である大国主命とともにこの加賀の地に到り、まず洪水を治め、暴風を防ぎ、産業を興したと伝えられる。

当社の祠官は上田氏、田中氏だったが、田中氏は廃絶、上田氏のみが現在まで続くが、その上田氏の遠祖は、信濃国諏訪大社の祠官の出身だったという。

平安時代の弘仁14年(823年)、越前国より江沼郡と加賀郡が分離して、加賀郡・石川郡・能美郡・江沼郡の四つの郡からなる加賀国が誕生した。

国府は能美郡莵橋郷に置かれ、梯川の中流域右岸、現在の古府町、小野町などにまたがる標高15メートルの古府台地が推定されている。

梯川が雨水期にはよく氾濫し、高所が所々浮き上がり、あたかも浮き橋のようになったことから、うはし=莵橋郷の地名や当社号になったという。莵は兔、兎、得とも書く。

当社地周辺は、当時の加賀国の中心地だった。加賀国立国、国府成立よりも早い創建の当社は、莵橋郷30ヶ村の総鎮守として、上下に厚く崇敬された。

当初は得橋郷小野村に鎮座したという。嘉祥年間(848年-851年)の太政官符によると、正六位上が下賜された。

加賀国守護職富樫氏の累代500年あまりにわたって、国司の巡拝・奉幣あるいは社殿などの造営が行われた。

中世、上小松村に遷座、小野村の旧社地には小祠を建て「大橋の宮」と呼んだという。一向一揆の全盛の頃は、当社にも影響があったと考えられる。

江戸時代初期の元和元年(1615年)、城代前田源峯は当社拝殿に城内と記した提灯を提げ、神幕を奉納し、社頭に禁制の高札をかかげた。

前田利常は当社を小松・金沢両城の鎮護の神と仰ぎ、慶安4年(1651年)には大工棟梁山上善右衛門に命じ、現在地に社殿を造営し、社領・神宝などを寄進した。

松尾芭蕉も、奥の細道の道中で、当社を参詣した。元禄2年(1689年)、随伴した河合曽良の随行日記に「7月27日快晴、所ノ諏訪宮祭ノ由聞テ詣」との記載がある。
しほらしき 名や小松ふく 萩すすき
以上の句はこの時のもので、当社境内にはその句碑がある。

毎年の春季大祭には神輿の城内渡御が行われ、大手前において金沢・小松両城ならびに加越能三州の泰平と民生繁栄の祈願神事が行われた。

明治8年(1875年)7月、現社号が停止され、小松諏訪神社と改称させられた。明治14年(1881年)7月、郷社に列した。

明治15年(1882年)、現社号に復称したが、現在でも「諏訪」色が強い。明治29年(1896年)9月、県社に昇格した。

現在、例祭は、5月15日が春季例大祭で、お旅祭。旧小松城大手前に神輿渡御し、天下泰平を祈願、その後小松市内全氏子区域を巡幸する。

奉納行事として、獅子舞、諏訪太鼓の他に、曳き山の上で子供が歌舞伎を演じる「曳山子供歌舞伎」が有名である。

8月27日が秋季例大祭で、西瓜祭。この秋祭りに、西瓜を売る店が何軒も並んだという。

本来は水火(すいか)まつりが正しい。「水」と「火」の祭り。「水と火の神事」が行われ、御神火で清められた御神水が参拝者に振る舞われる。力くらべの神事もある。

境内社に、巌之御魂神社(神明宮)、金刀比羅神社、稲荷神社、少彦名神社、粟嶋神社、天神地祇神霊社・荒御魂社、須納谷白山社・杖白山社がある。

本殿の背後に樹齢数百年をかぞえる老松2本があり、古来からこれを牛若松、弁慶松という。

鎌倉時代、源義経・弁慶一行が奥羽落ちをした時、安宅の関の通過に際し、当社に武運長久の祈願を行ったと伝わる。石川県の名木の一つで、現在は牛若松のみ現存する。

【ご利益】
事業成功、産業振興、交通・旅行安全、武運長久・勝運(公式HP
菟橋神社 石川県小松市浜田町
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菟橋神社 石川県小松市浜田町の御朱印