当地で薨去した垂仁皇子を奉斎、上杉謙信・景勝や歴代領主の崇敬
[住所]新潟県上越市三和区所山田550
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五十君神社(いきみじんじゃ)は、新潟県上越市三和区所山田にある神社。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「五十君神社(越後国・頸城郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。

御祭神の第11代垂仁天皇の皇子である五十日帯彦命は、大賀・不盡の二臣を従えて越後国に下り、池溝開発にあたったが、頸城郡高志八岐村で薨去した。

そこで大賀・不盡の二臣はこの地にとどまり、命の御神霊を奉祀したのが当社の創始。第12代景行天皇の御宇に一社を建立し、五十王神社と称した。

奈良時代の神亀3年(726年)、勅命により現社号に改称したという。なお、『越後頸城郡誌稿』には大宝3年(703年)3月3日の勧請とある。

『和名類聚抄』に見える越後国頚城郡の「五公郷」、以木美(いきみ)は、この一帯に比定されている。

『神社明細帳』によると、弘仁4年(813年)7月に神位を授かり、建仁2年(1202年)2月に正三位を賜ったという。

戦国時代の永録3年(1560年)9月19日、関白近衛前嗣が西洞院時房などを従えて越後に下向した際、当社の神主が故あって奉仕者に選ばれたという。

その神主が関白に従って上洛したので、その後は郡司が社務を預かった。翌年、再度下向した前嗣は、当社に参拝し、社前に咲く梅花を描き、奉納したという。

また、上杉謙信は当社を祈願所とし、永録6年(1563年)11月、社用人馬通行の朱印状を与え、翌永録7年(1564年)6月3日、祈願料として57貫504文を寄進した。

安土桃山時代の天正8年(1580年)4月3日、上杉景勝は社境の制札を掲げた。春日山城主堀秀治が福島築城にあたって当社の大木を伐採したと伝わる。

江戸時代になり、慶長15年(1610年)には松平忠輝により社地が安堵された。

慶長年間(1596年-1615年)、高志八岐村が諸山田村に改められ、天和年間(1681年-1684年)に所山田に改められたという。

天和3年(1683年)の検地で、徳川幕府から除地高4石6斗3升1合、社地9町6反歩が付与された。明治6年(1873年)、村社に列した。

明治40年(1907年)に村内の安部社(市入命)、十二社(天神七代地神五代)、諏訪社(健御名方命)、征年方社(高志姫命)、大賀社(大彦命)、八幡社(誉田別尊)、美女池社(今子命・河沼姫命)、不尽臣社(武位起命・御才命・白石命)を合祀した。

現在までに相殿神として、剣大明神(日本武尊か白鳥大明神)、飯縄大明神(倉稲魂命)が祀られている。

主祭神の異説として、級長津彦命・級長戸辺命、五十猛命・太種大明神、物部印岐美連などがある。

例祭は8月8日で、夏季大祭。

【ご利益】
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五十君神社 新潟県上越市三和区所山田
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