高宮神官の祖、大杜御祖神社の子、郡唯一の大社で総社、一の宮
[住所]大阪府寝屋川市高宮2-11-23
[電話]072-822-2158
高宮神社(たかみやじんじゃ)は、大阪府寝屋川市高宮にある神社。近代社格では郷社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 河内国 讃良郡「高宮神社」に比定される式内社(大社、月次新嘗)。
創祀年代は不詳。『新抄格勅符抄』によれば、平安時代初期の大同元年(806年)の牒に「高宮神一戸河内国同年奉レ充」とあり、この「同年」は奈良時代の神護景雲4年(770年)となる。
それ以前からの古社。『日本三代実録』では、貞観元年(859年)に従5位下から従5位上に進階している。
御祭神は、天剛風命(天剛川命。あめのこかぜのみこと)。『先代旧事本紀』によれば、高宮神主たちの祖で、天萬魂命(あめのよろずたまのみこと)の子。
父である天萬魂命を祀るのが、やはり式内社である大杜御祖神社で、大杜御祖神社が「奥宮」と呼ばれるに対し、高宮神社は「子宮」と呼ばれた。
当社の南東300メートルほどに大杜御祖神社は鎮座している。両社の関係は密接で、当社は若宮神社とも呼ばれた。
『日本書紀』神功皇后5年条に、葛城襲津彦命が新羅から連れてきた浮人として、「桑原・佐糜・高宮・忍海、凡四邑漢人等之始祖也」とある。
この書紀の「高宮」が、当社などに関わる高宮かどうかは不明だが、もしそうであれば、高宮神主たちは渡来系だったのかもしれない。
また、この高宮神主は、阿知使主の後裔ともされる。そうなれば渡来系であり、書紀の記述と符合する。
当社は讃良郡唯一の大社で、讃良郡18ヶ村の総社で、讃良郡の一の宮とされた。大杜御祖神社と当社の神宮寺として玉松寺があったが、明治初年に廃寺になった。
明治5年(1872年)、郷社に列した。例祭は10月10日。境内には高宮廃寺礎石がある。高宮廃寺は大杜御祖神社の地にあったとされる寺院。
【ご利益】
平穏安寧、地域安全、一族・子孫繁栄
【関連記事】
・大阪府の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、大阪府に鎮座している神社の一覧
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高宮神社(たかみやじんじゃ)は、大阪府寝屋川市高宮にある神社。近代社格では郷社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 河内国 讃良郡「高宮神社」に比定される式内社(大社、月次新嘗)。
創祀年代は不詳。『新抄格勅符抄』によれば、平安時代初期の大同元年(806年)の牒に「高宮神一戸河内国同年奉レ充」とあり、この「同年」は奈良時代の神護景雲4年(770年)となる。
それ以前からの古社。『日本三代実録』では、貞観元年(859年)に従5位下から従5位上に進階している。
御祭神は、天剛風命(天剛川命。あめのこかぜのみこと)。『先代旧事本紀』によれば、高宮神主たちの祖で、天萬魂命(あめのよろずたまのみこと)の子。
父である天萬魂命を祀るのが、やはり式内社である大杜御祖神社で、大杜御祖神社が「奥宮」と呼ばれるに対し、高宮神社は「子宮」と呼ばれた。
当社の南東300メートルほどに大杜御祖神社は鎮座している。両社の関係は密接で、当社は若宮神社とも呼ばれた。
『日本書紀』神功皇后5年条に、葛城襲津彦命が新羅から連れてきた浮人として、「桑原・佐糜・高宮・忍海、凡四邑漢人等之始祖也」とある。
この書紀の「高宮」が、当社などに関わる高宮かどうかは不明だが、もしそうであれば、高宮神主たちは渡来系だったのかもしれない。
また、この高宮神主は、阿知使主の後裔ともされる。そうなれば渡来系であり、書紀の記述と符合する。
当社は讃良郡唯一の大社で、讃良郡18ヶ村の総社で、讃良郡の一の宮とされた。大杜御祖神社と当社の神宮寺として玉松寺があったが、明治初年に廃寺になった。
明治5年(1872年)、郷社に列した。例祭は10月10日。境内には高宮廃寺礎石がある。高宮廃寺は大杜御祖神社の地にあったとされる寺院。
【ご利益】
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