中世か近世に鹿島社、あるいは八幡と合祀、水戸家からの崇敬
立野神社 茨城県常陸大宮市上小瀬351
[住所]茨城県常陸大宮市上小瀬351
[電話]0295-56-3843

立野神社(たてのじんじゃ)は、茨城県常陸大宮市上小瀬にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 常陸国 久慈郡「立野神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。

社伝によれば、平安時代初期の大同年間(806年-810年)、創祀された。一方で、式内社の多くが大化2年から3年(646年-647年)に創立しているので、当社もその頃の創立、とも。

しかし、大化年間に式内社の多くが創立、というのもあまり根拠がある話でもないと思う。ともかく、大和国龍田神社と同体なり、とされる。

御祭神は、級長津彦命・級長戸辺命、現在は素盞嗚命を併せて祀る。

式内社「立野神社」は、『日本三代実録』貞観16年(874年)に正六位とあり、室町時代の明応9年(1500年)には正三位に達した。

社域は、現社域より東南東約1キロの西塩子境の立野山の山腹にあったという。

安土桃山時代の天正年間(1573年-1593年)、佐竹氏の一族である小瀬庄三郎義隆が村民と相談の上、村の中央、白幡山の鹿島神社に合祀し、立野鹿島神社と尊称し、小瀬の総鎮守としたという。

この合祀は天文18年(1549年)のことともされている。

『式内社調査報告』では、白幡山が八幡と関連するとして、合祀の時期を元禄年間(1688年-1704年)まで引き下げて説を展開する。

当地には、正八幡と鹿島社が存在した。水戸藩の一村一鎮守、いわゆる八幡潰しも含め、鹿島神社のみとした。

鎮座地が白幡山だったことを考えると、実際に整理されたのは鹿島社で、正八幡を鹿島と改名、その後、立野山の立野社を合祀し、立野鹿島となった、という。

江戸時代後期の天保5年(1835年)、常陸水戸藩9代藩主徳川斉昭から21石が寄進された。

また、明治5年(1872年)には徳川昭武から、水戸家重宝の塗弓一張が奉納された。翌明治6年(1873年)には30ヶ村の郷社に列し、明治40年(1907年)には神饌幣帛料供進社に指定された。

平成5年(1993年)4月29日、佐竹七福神の一神「身代り大黒天」が奉安された。翌平成6年(1994年)5月には「平成御大典記念」の3年あまりの歳月をかけた整備事業が竣功し、神域が整備された。

例祭は、春季例祭が3月19日、秋季大祭が11月5日。6月第2土・日曜日に祇園祭がある。

なお、式内社「立野神社」の論社は他に、水戸市谷津町に当社および式内の同名神社、市内赤土町の天満宮がある。

【ご利益】
風の神、五穀豊穣、厄災除け、病魔退散
立野神社 茨城県常陸大宮市上小瀬
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