武甕槌大神の剣と大国主大神の鉾、境内に「神宝 十種之宮」
楯原神社 大阪府大阪市平野区喜連6-1-38
[住所]大阪府大阪市平野区喜連6-1-38
[電話]06-6709-0232

楯原神社(たてはらじんじゃ)は、大阪府大阪市平野区喜連にある神社。現在は、式内楯原神社とも。参拝すれば、御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 摂津国 住吉郡「楯原神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。現在は、神社本庁に属さない単立神社。

神代、武甕槌大神大国主大神の教えにしたがい、国平の鉾を持って天下を巡行した後、この地に留まった。

その孫である大々杼命に「十握の剣を私の霊の代わりとして、また国平の鉾を大国主大神の霊代として斎き奉るように」と言い残して、天昇り隠れた。

その子孫の大々杼彦仁は、初代神武天皇が東遷の途中、紀国で大熊に悩まされていた時、その剣を献上し、東遷に貢献した。大々杼彦仁は、つまり高倉下命に相当することになる。

第8代孝元天皇が、大々杼彦仁(の子孫?)の邸宅に楯・鉾を親拝、御真像を彫り、当地で奉斎されたという。現在はで、孝元天皇も併せて祀られている。

第10代崇神天皇は、子孫の大々杼名黒に、「斎祀している武甕槌大神と大国主大神を同じ社で祀ることは畏れ多い。別々に神殿を造り、社名を称せよ」と命じた。

そこで、字楯原の地、現在の喜連西1丁目を選んで社殿を建立し、十握の剣を楯の御前社、国平の鉾を鉾の御前社として鎮祭した。

大々杼名黒は、第14代仲哀天皇の皇后、息長帯女命による三韓征伐の際、神託を伝えた。その功により、楯の御前社と鉾の御前社では、神籬を立てて祀られた。

その神功皇后は、楯の御前社と鉾の御前社に参拝し、その折、楯の御前社を改め、二柱の大神を楯原神宮と称し、鎮祭した。

また大々杼氏を改め息長氏としたともいう。大々杼命とは、応神記に見える品陀天皇息長真若中比売を娶って生まれたのが若野毛二俣王、その子の意富富杼王を思わせる。

意富富杼王は、『古事記』に息長君らの祖とある。明治37年(1904年)、環濠浚えの際、広住塚前で「息長眞若中媛」標柱が発見され、現在は境内最奥に移されている。

若野毛二俣王、意富富杼王の後裔に、第26代継体天皇が出る。息長氏の近江ともつながる。

この一帯は、住吉津・住吉大社から東へ伸びる「磯歯津路」に沿った地域。さらに東へ行けば、長原遺跡や旧跡部郷の物部氏本拠地を通り、大和川水系などを経て奈良盆地へ接続する。

『住吉大社神代記』に、住吉神の子神が列挙される中の「件住道神達八前」に註をして、「天平元年(729年)11月7日、託宣により河内国多治比郡の楯原里に坐す」とある。

平安時代になり、桓武天皇の頃、風水害が続いたので、赤留姫命を御祭神とする赤留比売命神社を勧請し、龍王社として境内社とした。

戦国時代の文明13年(1481年)、もとの字楯原の地より現在地近くに遷座。さらに江戸時代初期の元和年間(1615年-1624年)、暴風雨で社殿が壊れたため、現在地に遷座した。

龍王社は奧の宮とも称されたが、大坂夏の陣の兵火に遭い、焼失。すぐさま再建され、喜連で最古の建造物として現存するが、いつしか、この龍王社が当社そのものと考えられるようになったという。

また、付近にあった天神社(菅原道真)を合祀したため、以降、天神社または天満宮と呼ばれるようになった。

江戸時代後期の嘉永年間(1848年-1855年)、忍坂大中姫を祀る媛天神を合祀した。

明治5年(1872年)、赤留姫命を祀る社と間違われたまま無格社となった。その後、氏子の努力もあって、現社号に改称、式内社として認定された。例祭は10月15日。

境内社として、「神宝 十種之宮」がある。奥の院とも呼ばれる。もとは大和石上神宮の御神宝で、戦国時代、織田信長に攻められた際、散逸したもの。

その後、この御神宝は保護され、豊臣秀吉により、生魂の森深くに埋められ奉斎されたという。幕末になり、また行方不明になった。

さらにその後、喜連に住む小林某が古道具屋の店頭で発見し、これを買い求め、紆余曲折を経て当社に奉納されたという。

石上神宮の守護職を歴代つとめている庄司氏が返還を求めてきたが返さず、社殿を建立して祀り、現在に至っている。

【ご利益】
平穏安寧、武運長久・勝運、学業・受験合格
楯原神社 大阪府大阪市平野区喜連
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