奈良期に現在地に遷座した恒田明神、4月に幻の「秋津百石踊」
[住所]兵庫県加東市秋津1113
[電話]0795-47-0422

住吉神社(すみよしじんじゃ)は、兵庫県加東市秋津にある神社。秋津住吉神社とも。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 山陽道神 播磨国 賀茂郡「垣田神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。

創祀年代は不詳。口承によると、古墳時代後期まで遡るとも。当地は『播磨国風土記』にある端鹿の里の一部とされる。

この地の秋津富士を中心とする周辺の山上に13基の古墳群や秋津窯址が確認されており、加古川から支流の東条川をさかのぼって来た人々が早い時期から住みついたと考えられている。

もとは、現在の加東市秋津字住吉の周辺の山中に鎮座していたという。御祭神は、底筒男命中筒男神表筒男神住吉三神

その後、東条川の流れが定まるにつれ水田の開発がすすみ、人々の住居も水田周辺の平地に移ったところで、当社も現在地に遷座したと考えられている。

水田の開発が進んだために恒田(常田)の地名が生まれ、当社遷座地選定の理由として、清水の湧き出る清浄な地だったために、常田字清水と呼ばれるようになったという。

遷座は奈良時代後期とされ、恒田明神と称するようになったという。式内比定の論拠であろう。

鎌倉時代における社殿造営が伝わり、この頃、神宮寺が建立されたという。

戦国時代の元亀年間(1570年-1573年)、広大な規模を誇ったと伝わる森住吉神社が焼失し、当社に合祀、統合された。その際、神功皇后が配祀された。

当社も戦国時代の混乱に巻き込まれ、社殿の建替えもままならず、神社の物品のほとんどが流出。

江戸時代になり、世の中が安定するにつれ、その前期である貞享4年(1687年)、当社も大規模な再建がなされ、建物の配置なども現在の形に整った。

当時はまだまだ境内も広大で、松や杉、檜の樹木も多く、昼間でもうっそうとした杜を誇ったと伝わる。

明治7年(1874年)、郷社に列し、明治23年(1891年)には拝殿、舞殿を建替え、その後幣殿を加え、現在に至る。偏額には、「住吉大神宮」とも。

社殿は南西向き、冬至の日の日の入りの方向にぴったりと向いている。

例祭は10月20日より26日の間の日曜日。近年では4月29日に「昭和の日奉祝百石踊五穀豊穣祈願祭」が行われ、「秋津百石踊」が奉納される。

「秋津百石踊」は、氏子11地区のうちの8地区に、旱魃時のみに演じる雨乞祈願の神事芸能。定期的に演じられなかったために、幻の神事芸能とも呼ばれた。

太平洋戦争を前後して、その混乱と、農業用ダム「東条湖」の完成による水不足解消で廃絶の危機に陥ったが、県指定重要無形民俗文化財となり、保存された。

名前の由来は、神事芸能を演じる経費に米百石を要したことからであると伝わる。この祭典では他に、湯立て神事なども再興される。

なお、式内社「垣田神社」の論社は他に、小野市小田町の垣田神社、三木市久留美の八雲社の境内社などがある。

ただし、当社は戦国期の森住吉神社の統合を、当社実質の創建としており、式内社には言及しておらず、比定には消極的か。

また、当社は、やはり賀茂郡の式内社「住吉神社」に比定される場合がある。『延喜式』神名帳に記載がある住吉神社の七社、いわゆる住吉七社の一つ。

他の論社に、市内上鴨川下久米小野市垂井町に当社および式内同名神社がある。

【ご利益】
交通安全、五穀豊穣、祈雨・天候
住吉神社 兵庫県加東市秋津
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