北条政子が頼朝の戦勝を祈願、その立像が江戸期に発掘、浅間づくり
[住所]東京都大田区田園調布1-55-12
[電話]03-3721-4050
多摩川浅間神社(たまがわせんげんじんじゃ)は、東京都大田区田園調布にある神社。近代社格では村社。全国にある浅間神社の一社。主祭神は木花咲耶姫命。参拝すれば、御朱印を頂ける。
創建は鎌倉時代の文治年間(1185年-1190年)と伝わる。
源頼朝が豊島郡滝野川松崎に出陣した時、夫の身を案じた北条政子が後を追って多摩川まで来た。
その時わらじの傷が痛んだため、この地で傷の治療をすることにして逗留した際、亀甲山(かめのこやま)へ登ってみると富士山が鮮やかに見えた。
富士吉田には、自分の守り本尊である浅間神社があるので、政子はその浅間神社に手を合わせ、夫の武運長久を祈り、身につけていた正観世音像をこの丘に建てたという。
以来、村人たちはこの像を「富士浅間大菩薩」と呼び祀ったのが、当社の起こり。
江戸時代前期の承応元年(1652年)5月、表坂の土止め工事をしていた時に、九合目辺りから正観世音の立像が発掘された。
多摩川で泥を洗い流すと片足が欠けていたため、新たに足を鋳造して祀り、6月1日に神事を行ったという。これにならい、現在も当社例祭は6月に執行されている。
明治40年(1907年)、当時の東京府荏原郡調布村大字下沼部にあった赤城神社、熊野神社を合祀した。
社殿は浅間神社古墳の上に建てられており、間に東急東横線を挟んで多摩川台公園の舌状台地に連なる。
本殿の建築様式は浅間造(浅間づくり)であり、これは都内唯一。社殿までの参道は多数の溶岩が置かれ、富士塚のように富士登山を模している。
境内には、富士講中興の祖である食行身禄の石碑がある。明治15年(1882年)に地元の講社が33回目の登山を記念して建てたもの。揮毫は勝海舟。
境内社に、小御岳神社・稲荷神社・三峯神社・阿夫利神社がある。社務所の屋上が解放された眺望スペースになっており、多摩川を眼下に、遠く富士山を遥拝できる。
【ご利益】
武運長久・勝運、安産(公式HP)
【関連記事】
・東京都の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、東京都に鎮座している神社の一覧
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多摩川浅間神社(たまがわせんげんじんじゃ)は、東京都大田区田園調布にある神社。近代社格では村社。全国にある浅間神社の一社。主祭神は木花咲耶姫命。参拝すれば、御朱印を頂ける。
創建は鎌倉時代の文治年間(1185年-1190年)と伝わる。
源頼朝が豊島郡滝野川松崎に出陣した時、夫の身を案じた北条政子が後を追って多摩川まで来た。
その時わらじの傷が痛んだため、この地で傷の治療をすることにして逗留した際、亀甲山(かめのこやま)へ登ってみると富士山が鮮やかに見えた。
富士吉田には、自分の守り本尊である浅間神社があるので、政子はその浅間神社に手を合わせ、夫の武運長久を祈り、身につけていた正観世音像をこの丘に建てたという。
以来、村人たちはこの像を「富士浅間大菩薩」と呼び祀ったのが、当社の起こり。
江戸時代前期の承応元年(1652年)5月、表坂の土止め工事をしていた時に、九合目辺りから正観世音の立像が発掘された。
多摩川で泥を洗い流すと片足が欠けていたため、新たに足を鋳造して祀り、6月1日に神事を行ったという。これにならい、現在も当社例祭は6月に執行されている。
明治40年(1907年)、当時の東京府荏原郡調布村大字下沼部にあった赤城神社、熊野神社を合祀した。
社殿は浅間神社古墳の上に建てられており、間に東急東横線を挟んで多摩川台公園の舌状台地に連なる。
本殿の建築様式は浅間造(浅間づくり)であり、これは都内唯一。社殿までの参道は多数の溶岩が置かれ、富士塚のように富士登山を模している。
境内には、富士講中興の祖である食行身禄の石碑がある。明治15年(1882年)に地元の講社が33回目の登山を記念して建てたもの。揮毫は勝海舟。
境内社に、小御岳神社・稲荷神社・三峯神社・阿夫利神社がある。社務所の屋上が解放された眺望スペースになっており、多摩川を眼下に、遠く富士山を遥拝できる。
【ご利益】
武運長久・勝運、安産(公式HP)
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