御嶽講の四大講祖の一人・一山行者を祀る、柚子祭りの冬至祭が有名
[住所]埼玉県さいたま市中央区本町東4-10-14
[電話]048-853-0200

一山神社(いっさんじんじゃ)は、埼玉県さいたま市中央区本町東にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

京浜東北線の与野駅の西口に降り、駅前の通りを西にまっすぐ2キロ近く進むと与野公園に突き当たる。

その手前の、本町郵便局の角を右折し、本町通り(旧鎌倉街道)を北に500メートルほど進んだ所に、「柚子祭り」で知られる当社の参道の入口がある。

当社は、御嶽講の四大講祖の一人とされる一山行者を祀った社。

御嶽講は、木曾国(長野県)御嶽山の山頂に鎮座する御嶽神社を信仰する人々によって作られた講社。

江戸時代中期の天明5年(1785年)に尾張国出身の覚明行者が黒沢ロの登山路を、次いで寛政4年(1792年)に武蔵国大滝村出身の普寛行者が王滝口の登山路を開いた。

その後、信濃国出身の一心行者が普寛行者の法統を受け継いで御嶽講の普及に努め、その結果、関東各地に御嶽講の講社ができ、普寛の元には多くの門弟が集まった。

与野町の有力者・井原平八もその一人で、御嶽講の先達として活躍した。

一方、幕府はこうした民間信仰集団の拡大を看過せず、江戸時代後期の文政4年(1821年)になって、寺社奉行より一心は遠島、平八たち先達には所払いの沙汰が下った。

その後、平八は与野町惣百姓61名による町役人復帰嘆願が差し出され、御嶽講に深い関係があった尾張藩主の斡旋などもあり、赦免となった。しかし、講は壊滅状態に瀕した。

この状況下に登場したのが一山である。一山は俗名を治兵衛といい、相模国津久井郡の出身といわれ、壮年になって平八の養子となった。

治兵衛は信仰心厚く、やがて井原家の許しを得て、同家に近い円乗院で剃髪し、数年間の修行の後、諸国で行者修行を積んだ。

ついに、木曾御嶽山において木食行を重ね、普寛・一心の行法を感得し、深く御獄大神を尊信するに至った。

その後の一山は、一心講の復興に努め、自らは一山講を興し、晩年、嶺村(現 東京都大田区)と当地に霊場を設け、数万の信者を擁するまでとなった。

旧嶺村には現在、北嶺町御嶽神社がある。一山とのゆかりが伝わる。一山は、嘉永4年(1851年)12月21日に没した。

一山の没後、講祖「一山霊神」の高徳を敬慕する多数の講員は、与野町内にあった八幡社の境内に御嶽大神の一座を勧請して神社を建立した。

これが当社の創建であり、嘉永末年(1854年)までには、社殿が建立されたという。その後も講員によって境内の整備が逐次進められた。

幕末の慶応2年(1866年)には手水石が奉納され、明治19年(1886年)には本殿・拝殿・神供所・社務所・祭器庫・鳥居・手水舎・敷石などが新築された。

「柚子祭り」「ユズ祭り」「ゆず祭り」が有名。正式には冬至祭で、拝殿での祭典後、境内でユズ・神饌物を供え、祝詞をあげ、神火をつけ、火焚神事が行なわれる。

行者は人形の入った木箱を担ぎ火中を渡り、参加者も加わって一年の災厄を清める。柚子を火中に投げ入れることから、俗称が生まれた。

【ご利益】
病気平癒、病魔退散、健康長寿
一山神社 埼玉県さいたま市中央区本町東
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一山神社 埼玉県さいたま市中央区本町東の御朱印