「ごしゃお」巨石崇拝と「森神さん」、都祁氏が代々の神職家
[住所]奈良県奈良市都祁小山戸町カモエ谷640
[電話]0743-82-0763

都祁山口神社(つげやまぐちじんじゃ)は、奈良県奈良市都祁小山戸町カモエ谷にある神社。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「都祁山口神社(大和国・山辺郡)」に比定される式内社(大社、月次新嘗)の論社。近代社格では村社。

創建年代は不詳。裏山頂上付近に通称「かもえ谷」と呼ばれる巨石崇拝の地がある。

当社の奥の院ともされ、村人は「ごしゃお」と呼んでいる。「ごしゃお」については、「御社尾」「五社尾」と漢字を当てるものもある。

この巨石に水分大明神が降臨したとされており、当地での祭祀は非常に古くから行われていたと思われる。

古代闘鷄の国の鎮守ともされる。初代神武天皇の皇子である神八井耳命の孫である都祁直が闘鷄の国造となり、小山戸に居住。

その氏神として奉斎されたのが当社の起源とも。代々の神職家は都祁氏だった。ただし、現在の御祭神は山口神社としての大山祇神である。

子孫の闘鶏稲置大山主は氷室の氷を天皇に献上し、闘鶏氏は氷室の管理者としても知られる。氷室神社がある。

奈良時代の天平2年(730年)、『大倭国正税帳』に「都祁神戸、稲壱佰参拾陸束、租壱拾束壱把、合壱佰肆拾陸束壱把、用肆把祭神残壱佰肆拾弐束壱把」とある。

平安時代の大同元年(806年)、『新抄格勅符抄』に「神封一戸大和国」とあり、仁寿2年(852年)、官社に列したと『日本文徳天皇実録』にある。

『日本三代実録』貞観元年(859年)正月27日条に、従五位下より正五位下に進叙、同年9月8日には風雨の祈願のため遣使奉幣された。

寛平3年(891年)、現在地に遷座。神名帳の他に、『延喜式』巻3「臨時祭」祈雨神祭条に「都祁山口社一座」とあり、祈雨神祭85座に含まれる。

大和国の式内社で山口の社名を有する14の神社、いわゆる大和国十四所山口神社の一つとして崇敬された。

天禄2年(971年)とも、天徳2年(958年)とも、さらにそれよりも早い時期ともされるが、「ごしゃお」に祀られていた水分大明神が鞆田(友田)に遷座した。

現在の都祁水分神社である。つまりこの時期まで、当社と都祁水分神社は非常に隣接して鎮座しており、『大倭国正税帳』の記載などはどちらを指すのかなど異論もある。

ともかく、これにより、当社を上宮、都祁水分神社は下宮と呼ばれるようになり、以前は例祭で、都祁水分神社の神輿渡御が当社まであったという。

清和天皇の貞観元年(859年)、伊勢斉王の括子内親王が都に帰る途中、都祁頓宮に入った時、これに従ってきた藤原時忠がこの地にとどまった。

都祁頓宮麻呂の女婿となり、神主職を継いだとされ、以降都祁氏は藤原氏を名乗って神職を世襲した。小山戸殿とも称された。

南北朝時代の暦応年間(1338年-1342年)、伊勢の北畠氏に属して北と改姓、大乗院領小山戸庄の下同職とも兼務した。

戦国時代の争乱により当社は衰微し、都祁水分神社の御旅所としての体裁だけとなったともいう。

江戸時代になり、時の神職である北左京之進が郷民を勧めて、承応2年(1653年)に仮宮が、寛文元年(1661年)に一ノ社が造立された。

再興した後には、古名でもある小山戸明神と称された。江戸期には、伊勢の神宮(伊勢神宮)にならい、都祁水分神社を内宮、当社を外宮とも称された。

現在の拝殿は、この流れの中で貞享4年(1687年)に造替されたもの。本殿は明治12年(1879年)に新築されたもの。

例祭は10月24日・25日。4月23日に御田祭、5月下旬に毛掛篭、7月1日に夏神楽祭、8月25日に風の祈祷がある。

現在は、大国主命を合祀する。境内社に、皇大神宮(天照皇大神)、蛭子社(恵美須大神 )、八王子社(威徳神)などがある。

当社付近には「森神さん」がある。三坪ばかりの雑木の叢林が水田の中に取り残されている。

除こうとした際に祟りがあったとされ、以来、禁忌的神聖叢林になっている。「ごしゃお」の神石との関連が指摘されている。

なお、式内社「都祁山口神社」の論社は他に、天理市に同名の神社がある。

【ご利益】
五穀豊穣、一族・子孫繁栄
都祁山口神社 奈良県奈良市都祁小山戸町カモエ谷
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