吉野山の入口、吉野三所権現の一つ、静御前が舞った旧跡、勝運の神
[住所]奈良県吉野郡吉野町吉野山2354
[電話]0746-32-3024

勝手神社(かつてじんじゃ)は、奈良県吉野郡吉野町吉野山にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

『延喜式神名帳』にある「吉野山口神社(大和国・吉野郡)」に比定される式内社(大社、月次新嘗)の参考社。近代社格では村社。

創建年代は、『日雄寺継統記』では第6代孝安天皇6年とされる。

吉野大峰山の鎮守社である吉野八社明神の一つで、かつては「勝手明神」と呼ばれた。

御祭神は、『和漢三才図会』に「勝手社 祭神一座 受鬘命(うけりのみこと/うけのりのみこと)」とある。

現在の主祭神は天忍穂耳命大山祇命久久能智命木花佐久夜比咩命苔虫命・葉野比咩命が配祀されている。

吉野川水源に当たる青根ヶ峰は、古くから水神として崇敬を受け、山頂付近に金峯神社(奥千本)・山腹に吉野水分神社(上千本)・山麓に当社(中千本)が鎮座した。

蔵王権現の金峯山寺、子守権現の吉野水分神社、そして当社は三所権現として、伯耆の三仏寺に勧請された。

蔵王権現は奥院(投入堂)、子守権現は地蔵堂、勝手権現は文殊堂に祀られた。

勝手明神は単体でも諸国の神社に勧請され、全国28社の同名神社の総本社となっている。

吉野水分神社の御祭神とは夫婦神とされる。当社が男神、子守明神が女神。

室町後期成立の能「嵐山」では、吉野から移植された嵐山の桜の花守(はなもり)である老夫婦は実は勝手、子守両神の化身。

蔵王権現、勝手明神、子守明神は三身一体であることを宣する筋立てが語られる。

勝手は「入り口・下手」を意味するともいい、その字面から勝負事や戦の神としても信仰された。

近世までは勝手大明神の本地は毘沙門天とされ、さらなる武門の尊崇を受けることになった。

また、吉野山の入り口に位置することから山口神社ともいわれた。そのため式内参考社とされる。通常は町内山口の式内同名神社が比定される。

式内社「吉野山口神社」は、大和国の式内社で山口の社名を有する14の神社、いわゆる大和国十四所山口神社の一つ。『延喜式』巻3「臨時祭」祈雨神祭条にも「吉野山口社一座」とあり、祈雨神祭85座に含まれる。

飛鳥時代、大海人皇子、後の天武天皇が当社殿で琴を奏でたところ、天女が舞い降り5度袖を振りつつ舞ったと伝えられ、背後の山は「袖振山」と称する。

また、この故事が宮中の「五節舞」の起源という。

境内には源義経の妻女、静御前が追っ手に捕らわれた際、舞を見せたと伝わる舞塚が残る。
静御前
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
社殿は、江戸時代初期の慶長9年(1604年)、豊臣秀頼が改修したが、江戸時代前期の正保元年(1644年)12月に焼失し、翌年に再建された。

しかしそれも江戸時代中期の明和4年(1767年)に焼失し、その後安永5年(1776年)に再建された。

流造檜皮葺、桁行八間・梁間二間の本殿は県の有形文化財だったが、平成13年(2001年)に不審火で焼失したため、御神体は向かいの吉水神社に遷座した。

境内には他に、下記の歌碑がある。
折口信夫
吉野山 さくらさく日に もうで来て かなしむ心 人しらめやも
【ご利益】
諸願成就、武運長久・勝運
勝手神社 奈良県吉野郡吉野町吉野山
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勝手神社 奈良県吉野郡吉野町吉野山の御朱印