大和三山の一つ、耳成山の八合目、天神と崇敬された雨乞いの神
[住所]奈良県橿原市木原町490
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耳成山口神社(みみなしやまぐちじんじゃ)は、奈良県橿原市木原町にある神社。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「耳成山口神社(大和国・十市郡)」に比定される式内社(大社、月次新嘗)。近代社格では郷社。

大和三山の一つ、耳成山。山口神社とあるが山麓ではなく山の八合目程の位置にある。

大和国の式内社で山口の社名を有する14の神社、いわゆる大和国十四所山口神社の一つで、中でも大和国六所山口神社の一社で、皇室の舎殿用材を切り出す山の神として奉斎された。

御祭神は、高皇産霊神(高御産巣日神)・大山祗神

創建は不明な点が多いが、一説に、第13代成務天皇の神託によって創建された。

古くは『正倉院文書』の正税帳の天平2年(730年)に天皇より稲を給わったことが記されている。

平安時代の大同元年(806年)や貞観元年(859年)9月などに、天皇の遣使によって雨乞いの神事が行われた記録が残っている。

神名帳の他に、『延喜式』巻3「臨時祭」祈雨神祭条に「耳成山口社一座」とあり、祈雨神祭85座に含まれる。

江戸時代前期の慶安4年(1651年)、山之坊の村民が御神木を伐り荒らしたことをきっかけに山の管理や所有争論が起こった。

元禄15年(1702年)、「耳無山天神ハ式内之社耳無山口神社」とすることで決着。その後、山之坊の村民は神霊を山之坊山口神社に遷座した。

先のように、近世には天神社と呼ばれていた。山も天神山とも。

この間、建物が焼失するなど荒廃していたが、寛延元年(1748年)8月、耳成村の氏子らが現在に残る本殿と拝殿を再建した。

江戸時代後期の安政元年(1854年)に奉納された和算の問題と解法が書かれた算額が今に伝わる。

現在も石原田・木原・葛本・新賀・常磐・山之坊地区の氏神として祀られている。例祭は10月13日。

木原村(現 木原町)から、松明をかざしながら、宮司を先頭にして村民が参詣祈願したことから、登山口の一つ「火振り坂」の名前の由来となった。

この木原が「もくはら」と読めることから、やはり式内社「目原坐高御魂神社二座」の論社ともされる。

式内社「目原坐高御魂神社二座」の論社は先の山之坊山口神社の他に、太田市町の天満神社がある。

かつて「耳無山」ともされていた名残で参道入り口の鳥居には「耳無山」と書かれている。境内には金刀比羅神社・稲荷神社・白龍大神がある。

【ご利益】
祈雨・気候、地域安全、家内安全
耳成山口神社 奈良県橿原市木原町
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