『延喜式神名帳』に五座と記載も、一座を奉斎、平群氏の根拠地に鎮座
平群神社 奈良県生駒郡平群町西宮617
[住所]奈良県生駒郡平群町西宮617
[電話]0745-73-1138 - 龍田大社

平群神社(へぐりじんじゃ)は、奈良県生駒郡平群町西宮にある神社。西宮集落の北端に鎮座する。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「平群神社五座(大和国・平群郡)」に比定される式内社(大社、月並新嘗)。

平郡氏の祖武内宿禰神功皇后とともに三韓征伐の際、戦勝を祈願し、この地に大山衹神を奉斎したと伝わる。

現在に至るまで、御祭神は大山衹神の一座で、『延喜式神名帳』の五座と矛盾がある。

一説によれば、後に歴代の平郡氏が祖神を合祀して、『延喜式神名帳』の時には五座になっていた、とも。

それからまた現在の一座に戻った、ということか。

平群氏の祖は、武内宿禰の子で、平群都久宿禰。『古事記』には「平群臣、佐和良臣、馬御樴連らの祖」と記載がある。

『日本書紀』に、第16代仁徳天皇が生まれた日、木菟(みみづく)が産屋に入り、また同日武内宿禰にも男子が生まれ、鷦鷯(みそさざい)が飛び込んできた。

この吉兆を交換して皇子を大鷦鷯尊、武内の子を木菟と名付けたという。

『古事記』にある神との名の交換ならともかく、主上と臣下の子の名前の交換とは通常は考えられず、様々な憶測を呼んでいる。

ともかく、平群都久宿禰の裔に志毘臣(鮪)が出る。

『古事記』では、袁祁王(後の第23代顕宗天皇)とを取り合い、袁祁王とその兄の意祁王(後の第24代仁賢天皇)に焼き討ちされて滅亡する(『古事記』該当部分)。

このことに対して、『日本書紀』では仁賢天皇の子である第25代武烈天皇の即位前の話とし、武烈天皇と大伴金村が、平群真鳥・鮪の親子を討つとある。

ともかく、志毘臣(鮪)の滅亡以降、平群氏は衰微する。当社の社勢にも影響があったに違いない。

また、これに伴い、平群の地、つまり大和の西北隅、谷間に追いやられた、ともされるが、それ以前に平群氏の名があり、当地の名称となっていたはずなので、これは首肯できない。

当社近隣には、西宮古墳がある。一辺約36メートルの三段築成の方形墳。7世紀中頃から後半の終末期のものとされる。当社との関連が指摘される場合がある。

近世には興福寺の影響下に入り、「春日大明神」と呼ばれた。この時代の狛犬や灯籠が現在も数多く残る。

境内右側の社務所の位置に、元西宮密寺と称する神宮寺があったが、明治の神仏分離で廃絶、あるいは西隣に移り来迎寺となったという。

「竜花山西宮密寺」の扁額「正徳元年露月廿八日西宮密寺住持元始如記」と不動明王・両界曼荼羅・十三仏画像は今、融通念仏宗の来迎寺に保管されている。

例祭は10月15日で、秋季大祭。現在は、龍田大社の兼務神社か。

なお、式内社「平群神社」の論社は他に、今は斑鳩神社の境内社である五所明神がある。

【ご利益】
五穀豊穣、家内安全、武運長久・勝運
平群神社 奈良県生駒郡平群町西宮
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