『播磨国風土記』記載、履中天皇の地名譚、5月の屋台と2月の御弓祭
[住所]兵庫県三木市志染町御坂242
[電話]0794-87-3545

御坂神社(みさかじんじゃ)は、兵庫県三木市志染町御坂にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 山陽道神 播磨国 美嚢郡「御坂神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。

創祀演題は不詳。『播磨国風土記』に「志染の里三坂にます神八戸掛須御諸神は、大物主、葦原志男命の国堅めたまひし以後に天より三坂峯に下り給ひき」との記載がある。

御祭神は、この通り、八戸桂掛須御諸神(やとかけすみもろのかみ)を主祭神に大物主神と葦原志男神を配祀する。ただ、この3柱はいずれも大国主神の別名。

第17代履中天皇が親拝した。その際に、「この川の流れは大変美しい」といったことにちなみ、この地域一体を「美嚢郡(みなぎのごおり)」と呼ぶようになったという。

また、履中天皇の食膳にシジミが這いあがったことから、この地をしじみ(志染)というようになったという。

近くには、志染の石室(しじみのいわむろ)がある。やはり『播磨国風土記』で、『日本書紀』には「縮見山石室」と表記されている。

第22代雄略天皇に殺された市辺押磐皇子の二人の皇子、後の23代顕宗天皇である袁奚と後の24代仁賢天皇である意奚の兄弟が隠れ住んだと伝えられている(『古事記』該当部分)。

天正年間(1573年-1593年)、羽柴秀吉が中国討伐の際、その途上に三木の別所長治の居城釜山攻めを行ったが、そのときの兵火で古記録がすべて焼失した。

その後、江戸時代初期の慶長13年(1608年)、現在地へ遷座した。

明治6年(1873年)、郷社に列し、大正3年(1914年)4月には神饌幣帛料供進社の指定を受けた。

境内は、本殿と、本殿に構造的につながった拝殿、それらの正面に能舞台と社務所を置き、本殿裏側は杜になっており、陰陽石が祀られる。

例祭は5月4日・5日で、2台の屋台が奉納される。例祭後の日曜日に御田祭がある。2月11日に御弓祭がある。

6名の射手により1回に2本ずつ5回で計10本の矢が約20メートル離れた的をめがけて放たれ、その年の豊凶を占う。

的の中心に当たるとその年は五穀豊穣となり、的の裏側に封じ込めた「鬼」に当たった場合は「破邪顕正」、邪気をくじき、正しい道理を世間に現し、流布するとされる。

もともとは、射手は神社脇の志染川にて禊を行った後、拝殿で無言で神酒を受ける「長床の儀」を行っていたが、現在は省略されている。最後に餅まきが行われる。

式内社「御坂神社」の論社は他に、別所町の美坂社加佐細川町の三坂神社、別所町細川町に御酒神社、口吉川町の篠原神社がある。

【ご利益】
家内安全、安産、交通安全(公式HP
御坂神社 兵庫県三木市志染町御坂
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