生誕地で終焉地に「日本一」の白拍子、義経の側室・静御前を祀る
[住所]京都府京丹後市網野町磯
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静神社(しずかじんじゃ)は、京都府京丹後市網野町磯にある神社。御朱印の有無は不明。牛若丸として有名な源義経との悲劇的な人生を送った静御前を祀る。

小さな海側の村である網野町の磯で禅師の娘として生を受けた静御前は、6歳で父を亡くし、そのまま母とともに上京、京の地で、巧みな舞と美しさで静は指折りの白拍子に成長する。

平安時代末期の寿永元年(1182年)7月、後白河上皇が神泉苑で雨乞いの神事を行った際、白拍子として招かれた静が舞いを披露した。

その直後に大雨となり、後白河上皇より「日本一」との言葉を頂く。そうして、義経に舞姿を見初められ、側室となって男子を産むことになる。義経27歳、静が18歳の時だった。

義経は、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした後、兄の源頼朝に吉野に追われた。頼朝に鎌倉に招かれた静は、鶴岡八幡宮で頼朝と北条政子夫妻の前で、下記のように義経への想いを読む。
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき

しづやしづ 賤のをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
頼朝は激怒したが、政子のとりなしによって難を逃れたという。これにちなみ、毎年4月、鎌倉祭りのイベントとして「鶴岡八幡宮舞殿」で静の舞いが奉納されている。

しかし、この後に生まれた義経と静の子供は、頼朝により鎌倉の由比ヶ浜で生まれたその日に殺されてしまう。

わが子を失った静御前は、禅尼となった母とともに、故郷のこの地に戻り、生家跡に小さな庵を作り、この丹後の地から、義経の無事と愛児の冥福を生涯祈り続けた、という。

静御前の終焉地については、全国に数多くの説があるが、当地もその一つで、静は20余歳という若さでこの世を去ったと伝わる。

当社には、義経が磯豪族(惣太)に宛てた手紙や静の遺品などが残っていたというが、江戸時代中期の天明2年(1782年)の大火で焼失したという。

もともとは現在地から西へ約200メートルほどの所に鎮座していた。その地には現在、静御前の生誕の地とされる場所として、石碑や説明版がある。

当社の御神像は、静御前の木像。ちなみに静御前は、乙姫・羽衣天女・穴穂部間人皇女・細川ガラシャ・小野小町・安寿姫とともに、丹後七姫の一人とされる。いわゆる京丹後七姫伝説。

【ご利益】
諸願成就
静神社 京都府京丹後市網野町磯
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