中臣氏の菅生氏、中世に天神信仰「菅生天満宮」、江戸前期の本殿
[住所]大阪府堺市美原区菅生178-1
[電話]072-361-0323

菅生神社(すごうじんじゃ)は、大阪府堺市美原区菅生にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 河内国 丹比郡「菅生神社」に比定される式内社(大社、月次新嘗)。近代社格では郷社。

創建の由緒は不詳である。一帯は中臣氏の出身者が多数住んでおり、地名から菅生氏を名乗るようになり、豪族として当地を支配していた。

その菅生氏が祖神の天児屋根命を祀って氏神としたものとみられる。

文献の初出は『新抄格勅符』の「孝謙天皇、天平宝字八年(759年)本国封一戸を充て奉る」という記述である。

源平合戦の時、菅生朝臣一族は平家方に加勢したため敗北して、この地を追われ、四国や中国地方の山奥に逃避して落農となった。

また、建武元年(1334年)と暦応4年(1341年)の二度の兵火により、社殿・什宝がことごとく焼失したという。

それらもあいまって、中世、天神信仰が広まると、当社の神宮寺である高松山天門寺の社僧が「菅公は境内の菅沢の畔で生まれた」という説を唱え、天神を勧請して配祀した。

菅原道真の勧請は、室町時代の応永34年(1427年)のこととされる。

その菅沢は現在も境内に存在する。そのうちに「菅生天満宮」と呼ばれるようになり、江戸時代には天神の方が主祭神とされるようになった。

明治5年(1872年)、郷社に列した。明治41年(1908年)には近隣の神社を合祀した。

本殿は一間社春日造で、府下でも規模が大きなもので、正面の柱間は7尺。前方には幣殿と拝殿が接続し、周囲は側面に中門を設けた瑞垣で囲まれている。

市内屈指の古さを持つ江戸時代前期の万治4年(1661年)の建造物で、江戸時代後期の享和元年(1801年)刊行の『河内名所図会』にも記載されている。

現在の配置と『河内名所図会』の図にはほとんど変わるところがなく、当時の景観を保っていることが判明している。市指定有形文化財。

例祭は、4月5日が春季大祭、10月10日が秋季大祭。

境内社に、稲荷社、元宮菅生明神社、摂社恵比須神社などがある。

【ご利益】
学業・受験合格
菅生神社 大阪府堺市美原区菅生
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