依羅連・物部・中臣の諸説あり、行基の碑、正月8日に八日戎
[住所]大阪府大阪市東住吉区矢田7-6-18
[電話]072-331-0123

阿麻美許曾神社(あまみこそじんじゃ)は、大阪府大阪市東住吉区矢田にある神社。天美許曽神社とも。参拝すれば、御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 河内国 丹比郡「阿麻美許曽神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。

社伝によれば、大同年間(806年-810年)の創建とされているが、おそらくそれより古いであろうとされている。

「許曽」は新羅の言葉に由来するとされ、朝鮮半島からの渡来人が先祖を祀ったのが起こりではないかとされている。式内社に「許曽」が付く神社は複数ある。

当地は依羅郷とよばれ、依羅連という氏族の居住地と想定され、その氏神を祀ったものともされる。大依羅神社も依羅連との関連が指摘される。また、田坐神社もある。

『新撰姓氏録』によると、「日下部宿彌と同祖、彦坐命の後、百済人素彌志夜麻美乃君より出づる、また饒速日命の十二世孫懐大連の後」とある。

もとは『先代旧事本紀』において河内の国造に任じられた彦己蘓根命(ひこみそねのみこと)が主祭神だったという説がある。そうなると物部氏。

あるいは、中臣氏の阿摩比古命(あまのひこのみこと)が主祭神とする説もある。どちらにしろ、物部氏の滅亡後、中臣氏の支配するところとなったようだ。

平安時代後期の大治2年(1127年)2月15日、大和国春日大社から春日神を勧請したとも伝わる。

現在の御祭神は、素盞嗚尊天児屋根命事代主命。「阿麻岐志の宮」(あまぎしのみや)とも、「七郷の宮」とも呼ばれた。江戸時代には「天王」とも。

手水舎の東側に「行基菩薩安住之地」という石碑があり、行基がこの地に居住していたという伝承がある。

もともと矢田村の一部であったが、江戸時代に大和川の付け替えにより川が矢田村を分断。

当社は大和川の南岸に切り離されてしまう。南岸に残された矢田村の大半は後の松原市となる側に編入された。

しかし、当社の周囲と参道のみは矢田村に残留、後に大阪市の一部となり、現在も参道に相当する下高野街道が細長く松原市に食い込んで大阪市として存在している。

松原市の天美という地名は阿麻美に由来している。当社は大阪市域ではあるが、松原市天美地区の氏神でもある。

境内には明治初年まで、天見山の山号を持つ神宮寺が所在したが、明治の廃仏毀釈により廃寺になった。寺の山門が参道に残されている。

現在の拝殿は江戸時代後期の文久3年(1863年)の建築。本殿は独特の阿麻美造という様式で、昭和35年(1960年)に再建された。

拝殿前には注連縄石が建っている。若宮春隆宮司が日露戦争後の明治40年(1907年)、天美や矢田地区より出征した氏子の人々を顕彰し、名も刻んだもの。

東門の社号標石は昭和10年(1935年)の建立で、揮毫は春日大社の江見清風宮司による。明治時代前半に若宮氏が春日大社禰宜職から出仕したため。

境内には、樹齢500年を超える市条例によって保存樹林に指定されたクスノキや、神馬の像がある。境内社に、稲荷社・皇大神宮・琴平社がある。

7月17日の夏祭り、10月17日の秋祭りには多くの屋台が出て、多くの人で賑わう。また、正月8日の八日戎には、数百個の提灯が奉納され、明々と境内を照らし、壮麗。

また、当社は、阿保神社柴籬神社我堂八幡宮布忍神社屯倉神社とともに、1月1日から1月15日まで行われる開運松原六社参りの一社。

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阿麻美許曾神社 大阪府大阪市東住吉区矢田
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阿麻美許曾神社 大阪府大阪市東住吉区矢田の御朱印