崇神天皇五世孫の奈良別命を祀る式内古社、以前は熊野社、長慶寺
奈良神社 埼玉県熊谷市中奈良1969
[住所]埼玉県熊谷市中奈良1969
[電話]048-522-0550

奈良神社(ならじんじゃ)は、埼玉県熊谷市中奈良にある神社。奈良之神社とも。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 武蔵国 播羅郡「奈良神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。

利根川と荒川のほぼ中間に位置し、その地名は当地一帯が平坦部であることに由来する。が、明らかに後述の奈良別命の伝承によるものと思われる。

また、当社の南方約2キロのところには、古代の官道である東山道(後の中山道)が通る。

社伝によれば、下野国の国造の任を終えた奈良別命が、武蔵野の尾花の原(当地)を開いて美田となし、奈良郷の基を築いた。

『国造本紀』に、第16代仁徳天皇の御世、第10代崇神天皇の第一皇子豊城入彦命四世孫に当たる奈良別命が初めて下野国の国造に任命された、とある。

奈良別命が亡くなると、郷民がその徳を偲んで建立し、祀ったのが当社の創祀。御祭神は奈良別命。

当社東北1キロにある横塚山と呼ばれる前方後円墳は、奈良別命の墓所であるという伝承がある。

『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850)5月19日条に、当社は先の慶雲2年(705年)、陸奥国の蝦夷反乱に際し、神威を発揮したことにより、賞された。

武蔵国が東海道所属となる宝亀2年(771年)以前は東山道所属で、などの分析があるが、150年前の神威を賞さなければならなかった点の方が重要のように思う。

『成田氏系図』によると、当社奉斎氏族だと思われる奈良氏は、近隣の成田・別府・玉井氏などと並ぶ関東の名族の一つであった。

中世、当社は全国的に隆盛した熊野信仰の影響を受け、社名を熊野神社に変更。

戦国時代になり、当社の祭祀を行ったのは、幸手の不動院配下の年行事職を務める本山派修験円蔵坊で、同坊は、忍城主成田氏所領のうち、騎西、幡羅を檀那場としていた。

しかし、円蔵坊は長く続かず退転したため元空坊がその坊跡を継いだ。しかし、それも長く続かず、その後に僧長慶が長慶寺を建立、江戸期時代を通じて当社の別当となった。

江戸時代前期の慶安2年(1649)、社領20石の御朱印状を拝領した。

江戸時代後期になると、中世以来永く熊野神社としてきた当社は、復古の思想興隆により、社名を現社号に復した。

当社拝殿内に掛かる天保年間(1830年-1844年)の「武蔵国四十四坐神 式内社」の額は白川家門人の中村平兵衛ほか4名が奉納したもの。

明治になると、当社本殿の熊野神の本地である弥陀・薬師・観音の三尊は長慶寺に移され、代わって神鏡が奉安された。現在も、当社は長慶寺と隣接する。

現在までに、火産霊命建御名方命大国主命大日孁貴命彦火火出見命木花開耶姫命素盞嗚命豊宇気毘売命を合祀する。

境内社に、国魂神社・八坂神社・怡母社・金山社・天神社・伊奈利社がある。また、当社の東北500メートルに「和銅四年 奈良神社涌泉舊蹟」の石碑がある。和銅4年は711年。

【ご利益】
地域安全、地域振興、五穀豊穣、家内安全
奈良神社 埼玉県熊谷市中奈良
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