横見郡式内三社の一つ、古墳後期からの開発、古墳の上に本殿が鎮座
横見神社 埼玉県比企郡吉見町御所1
[住所]埼玉県比企郡吉見町御所1
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横見神社(よこみじんじゃ)は、埼玉県比企郡吉見町御所にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 武蔵国 横見郡「横見神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。

吉見丘陵の東端部に近い麓の平地に鎮座する。付近には、古墳時代後期の集落跡である稲荷前遺跡があり、当社も同時期の古墳の上に位置する。

境内末社である稲荷社も明治5年(1872年)創建とはいえ、「稲荷塚」と称する御所古墳群の上に鎮座しており、当地は古墳時代から開発が行われていた地である。

社伝によれば、創建は奈良時代の和銅年間(708年-715年)。『延喜式神名帳』にある横見郡三社の一つ。他の二つは、高負比古神社伊波比神社

御所の地名は、平安時代から中世にかけて吉見を領有した吉見氏の居館が地内に築かれ、当地の人々が「吉見の御所」と呼んだことによる。

その吉見氏は、源頼朝の弟である源範頼の子孫であり、鎌倉時代の永仁4年(1296年)まで四代にわたり当地を支配した。

中世になると、吉見氏が衰退し、以後は有力支配者が姿を消し、当地は名主などの有力農民の層の管理に移った。

その中で、当社は飯玉氷川明神社と称するようになったという。飯玉は、江南町の飯玉神社の由緒に、飯が炊いた米、玉が魂・霊の意で、穀霊信仰を表している、という。

現在、御祭神は建速須佐之男命櫛稲田比売命とされる。明らかに氷川神社であり、これが創祀当初からの御祭神かどうかは不明。

もとは倉稲魂命も合祀されていたというが、先述の明治期に稲荷社を創建して遷座したという。

慶長年間(1596年-1615年)、大洪水で流失した。その際、流れ着いたのが今の横見町久保田で、久保田117には現在、当社と同名の神社がある。

その久保田横見神社の本殿が町の文化財に指定されている関係からか、今では「横見神社 吉見町」だけだと、久保田横見神社を指すことが多いようだ。

その後に社号を旧に復し、明治7年(1874年)、郷社に列した。

境内には周囲4.5メートルの松の大木があり、御神木として「横見の松」と呼ばれていたが、台風で折れてしまい、今はその根だけが残っている。

稲荷社の他、境内社に三峰神社(伊弉諾尊伊弉冉尊)がある。

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横見神社 埼玉県比企郡吉見町御所
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