新田義貞や歴代の武将に崇敬された奈良期創建の稲荷、式内論社
今城青坂稲実池上神社 埼玉県児玉郡上里町大字忍保225
[住所]埼玉県児玉郡上里町大字忍保225
[電話]0495-21-2066

今城青坂稲実池上神社(いまきあおさかいなみいけがみじんじゃ )は、埼玉県児玉郡上里町忍保にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 武蔵国 賀美郡「今木青八坂稲實荒御魂神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では県社

烏川を背にして祀られ、社名の 「今城(いまき)」は、すなわち新来の意で、渡来系氏族が当地に高度な技術を導入し、「稲魂」を祀ったものとされる。

奈良時代の和銅4年(711年)に勧請され、忍保庄の総社として崇敬された。御祭神は伊吹戸主命豊受姫命の2柱。

南北朝時代の元弘年間(1331年-1334年)に新田義貞が金窪に大瑘城を築いた際、城の艮(東北)にあって荒廃していた当社を再興し、城の鬼門除けとした。

また、戦国時代の大永年間(1521年-1528年)には斉藤盛光の崇敬が篤かったという。

安土桃山時代の天正10年(1582年)に神流川合戦の兵火により、社殿を焼失した。この時、義貞再興の社殿も焼失。

天正19年(1591年)、川窪与左衛門信俊が社殿を改築し、神田を寄進。

江戸時代前期の元禄7年(1694年)、大洪水で社殿が流出、本殿だけはかろうじて水中から引き揚げ、地盤を高く築き、修繕を加えて再興した。

しかし元禄11年(1698年)に信俊の孫である武田越前守信貞が丹後国に転領となってから衰退の一途をたどった。

江戸時代中期の元文3年(1738年)に地頭から鳥居の再建を供米の奉納があり、 江戸時代後期の嘉永年間(1848年-1854年)には地頭から社殿の修繕と神田の寄進があった。

江戸時代までは稲荷社と呼ばれていたが、明治5年(1872年)に旧称に復して村社となり、明治32年(1899年)に県社に昇格した。

例祭は10月17日。現在はそれに近い日曜日。7月25日には斎田祭が執行される。明治初期から始まった「忍保の神楽」が伝わる。

境内社に、総社神社・八坂神社・加茂神社・北野神社・瘡守神社・宮西神社 がある。

なお、式内社「今木青八坂稲實荒御魂神社」の論社は他に、神川町に鎮座する同名神社がある。

また、上里町の長幡部神社が合祀したとも、その旧地とされる皇大神社とも、七本木神社に合祀された榛名宮神社など、論社がある。

『延喜式』神名帳には、「今城青八坂稲実神社」「今城青八坂稲実池上神社」なども記載されており、関連があると考えられている。

【ご利益】
五穀豊穣、武運長久・勝運、方除け
今城青坂稲実池上神社 埼玉県児玉郡上里町忍保稲実
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