玉村町火雷神社と同様、笛吹の葛木坐火雷神社を勧請か、宮中式内
火雷神社 宮中大膳職坐神三座の一座。写真は当社の勧請元と考えられる葛木坐火雷神社の拝殿
[住所]東京都千代田区千代田1-1
[電話]-

火雷神社(ほのいかづちじんじゃ)は。『延喜式』巻9・10神名帳 宮中京中 宮中坐神 大膳職坐神「火雷神社」に比定される式内社(小社)である。宮内省に属する大膳職で祀られていた神の1柱である。

大膳職(だいぜんしき)は、大宝律令制定時(701年)に、天皇の食事を掌る内膳司と対をなす、臣下に対する饗膳を供する機関に定められた。

ただし、主食については大炊寮が掌っており、大膳職は副食・調味料などの調達・製造・調理・供給の部分を担当した。宮中の待賢門の西傍、大炊寮の東隣にあったという。

当社は、奈良県葛城市笛吹に鎮座する式内社である葛木坐火雷神社を勧請したものと伝えられる。

現在では、単に火雷神社と呼べば、群馬県佐波郡玉村町にある式内社かつ上野国八宮である火雷神社を指す場合も多い。

この玉村町の火雷神社も、葛木坐火雷神社を勧請したものとの伝えがある。

葛木坐火雷神社は現在、早い段階で笛吹神社の末社になったこともあり、現在でも笛吹神社の名で知られており、火雷神社の総本社という面影はない。

火雷神は、『古事記』にもある黄泉の国の伊邪那美神の体に生じた、大雷火雷黒雷拆雷若雷土雷鳴雷伏雷の八雷神のこと、また、火産霊神あるいは火之迦具土神のことともされる。

「食」を司る機関が奉斎する神としては、「食」の色が希薄だが、料理に不可欠な火の神として祀られていたのだろう。

春分の日には春季神殿祭が、秋分の日には秋季神殿祭が行われたという。

当社も、中世には衰退、南北朝時代までは古代の形が維持されたものの、その後応仁の乱頃までには完全に廃絶したとされる。

同じく衰退し、明治になり復興した八神殿が、天神地祇などを合祀して「神殿」となった際、その天神地祇には当社も含まれているとされる。

であれば、当社は現在、皇居の宮中三殿の一つ神殿に継承されていることになる。

【ご利益】
料理の火、火防
火雷神社 宮中大膳職坐神三座の一座
『延喜式神名帳』宮中大膳職坐神三座
御食津神社一座
・火雷神社一座
高倍神社一座