二座は大己貴命・少彦名命か、大年神の子か、宮中最古、園韓神祭
韓神社 宮中宮内省坐神三座の二座。写真は勧請元の伝承がある漢國神社の拝殿
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韓神社二座(からじんじゃ/からかみのやしろ)は、『延喜式』巻9・10神名帳 宮中京中 宮中坐神 宮内省坐神「韓神社二座」に比定される式内社(名神大社、月次新嘗)である。

宮中宮内省坐神三座のうちの一座である薗神社(園神社)とともに、園韓神社と総称される。宮中宮内省坐神三座はいずれも名神大社で、宮中ではこの三坐のみ。

宮内省が直轄する唯一の三座でもある。御祭神は韓神。『古事記』において大年神伊怒比売との間の御子神に同名神がいる。

別の神との説もあり、また、本居宣長は『古事記伝』において、韓神の兄弟である曾富理神が園神・韓神二座のいずれか一座とする説を唱えている。

『大倭神社註進状』では、韓神社は大己貴命少彦名命を祀るとするとともに、これらの神は素戔嗚尊の子孫であり、疫から守る神であるとしている。

また、『大神氏家牒』を引用して、奈良時代の養老年間(717年-724年)、藤原氏による創建としている。創建当初より宮内省近くに祀られたと見られ、宮中36神では最古の神といわれる。

別に、奈良県奈良市漢国町の漢國神社の社伝では、同社の創建について、養老年間に藤原不比等が韓神の大己貴命・少彦名命を祀り、当社に分祀したとする。

文献上では、古くは『新抄格勅符抄』において、天平神護元年(765年)に韓神に10戸の神封が讃岐国から充てられたと見える。

『類聚三代格』では、平安時代の延暦20年(801年)、例祭の園韓神祭が記されている。

園韓神祭の例祭「園韓神祭(そのからかみのまつり)」は、2月の春日祭の後の丑の日、11月の新嘗祭の前の丑の日の年2回行う規定だった。

内容は『貞観儀式』などによれば、神部2人が庭に賢木を立て、庭火を焚き、御巫が祝詞を奏上。奏上後は笛と琴を奏し、御神子が庭火を廻って湯立舞を行い、次いで神部8人がともに舞ったという。

『日本文徳天皇実録』によれば、嘉祥3年(850年)10月20日、園神韓神等社として従五位下、斉衡元年(854年)4月9日、韓神として従三位に叙した。

斉衡2年(855年)9月9日には名神に列し、『日本三代実録』によれば、貞観元年(859年)1月27日、従三位から正三位に昇叙した。

『延喜式』では他に、当社の維持・管理について、讃岐国の封戸を社料とすること、神殿を守る者として封丁一人を充てることが規定されている。

『朝野群載』では、永保2年(1082年)の修理の申請が見えるが、その内容から社殿が荒廃した様子がうかがえる。

『長秋記』によると、大治5年(1130年)頃には儀式の古態も失われていた。

また『康富記』では、応永26年(1419年)2月5日の大風で社殿が転倒したと記され、その後、内裏は応仁の乱で焼亡、当社も廃絶したものとされる。

京都府京都市上京区主税町の大宮姫命稲荷神社の周辺には、明治初年(1868年)ごろまで、当社の遺址と思われるものが残っていたという。

韓神は他の宮中諸神とともに宮中三殿の一つである神殿の天神地祇の1柱として、現在は皇居において祀られていると考えられている。

【ご利益】
厄災除け、病気平癒
韓神社 宮中宮内省坐神三座の二座
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『延喜式神名帳』宮中宮内省坐神三座
薗神社(園神社)一座
・韓神社二座