2月に平安期から続き、川越城主も主賓として参加した甘酒祭り
[住所]埼玉県狭山市上奥富508
[電話]04-2952-5570

梅宮神社(うめみやじんじゃ)は、埼玉県狭山市上奥富にある神社。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。

鎮座地の奥富は、入間川の東岸に広がる低地に位置する農業地域で、平安時代に嵯峨天皇の第二皇子、武蔵守源信が、京都西院の勅旨田として、250町歩開田したことに始まる。

当社は源信により、この奥富の地の鎮守として、承和5年(838年)正月11日に山城国葛野郡梅津郷(現 京都市右京区)鎮座の梅宮大社から勧請したものと伝わる。

御祭神は、瓊々杵尊(大若子神)・彦火々出見尊(小若子神)・大山祇神(酒解神)・木花咲耶姫命(酒解子神)。

本社同様、酒の神であり、後述の甘酒祭り(甘酒祭)の伝統が伝わる。

南北朝時代の元弘3年(1333年)5月22日、新田義貞が武蔵野で北条軍と交戦した際、当社に戦勝を祈願したと伝える。

応永33年(1426年)5月3日の銘がある鰐口が現存する。現在は市の文化財に指定されている。

戦国時代の天文年間(1532年-1555年)、字山崎の地にあった社殿が焼失したため、現在の字宮ノ前の地へ遷座し、氏子もその近くへ移り住んだという。

『梅宮神社由緒記』によれば、江戸時代前期の元和9年(1624年)11月7日に3代将軍徳川家光が鷹狩りの際、当社に参拝した。慶安4年(1651年)1月2日には川越城主松平信綱も参拝した。

近世には上下奥富村の鎮守として祀られ、文政3年(1820年)に江戸浅草田原町境屋傳蔵が奉納した「桃園三傑図」が現存、指定文化財となっている。

江戸時代後期の嘉永6年(1853年)11月20日、火災に躍り、古記録などがすべて焼失して、詳細は不明。

現在の社殿は安政4年(1858年)4月に、境内の古木を資材として再建に着手したもので、慶応4年(1868年)に竣工した。

別当を務めていた真言宗梅宮寺は、村内瑞光寺の隠居寺で、神社の祭祀のみを預かり、葬儀には関与しなかったという。

維新後、梅宮寺は廃寺となったため、僧は復職して梅田姓を名乗り、現在の神職家となっている。明治4年(1871年)、村社に列した。

明治40年(1907年)から明治42年(1909年)にかけて、字宮前の富士嶽社はじめ計8社を合祀した。

2月10日と11日に甘酒祭が行われる。関東地方では珍しい頭屋制の響宴形式の祭りで、創建以来続いているものとされる。市の無形文化財に指定されている。

川越城主松平信綱が主賓として参加した祭典で、上奥富地区の氏子区域を九組の頭屋組に分けて、順番に一年間の祭り行事に関与する。祭典名に関わらず、濁酒(どぶろく、白酒)も醸造される。

いわゆるどぶろく祭りの一つで、10日に宵宮祭では「奥富おごり」「座揃式の儀」「残酒の儀」と、翌11日の大祭には「第一神事・第二神事」などの儀式がある。

「座揃式の儀」では、頭屋組の責任者である杜氏が主人となり、地区の人々を招き、響宴を開く。謡をあげては酒盃を重ね、全部で6回重ねると式は終了する。

その後の「残酒の儀」では、楽座となり自由な雰囲気の中で盃のやりとりがあり、やがて伊勢音頭・相撲甚句を唄い、それに合わせて踊り、夜が更けていく。

11日午後は拝殿において、昨晩同様に謡をあげては酒盃を重ねる神事が行われ、祭り行事の引き渡しが行われる。また、西方囃子を上演、だるま市、植木市が開かれる。

なお、関東地方で有名などぶろく祭りとしては、茨城県行方市青沼の春日神社でのどぶろく祭りが知られている。

境内社に、八坂社・蚕影社・愛宕社・三峰社・富士嶽社・松尾社・大山社がある。

【ご利益】
五穀豊穣、地域安全、事業成功、酒造
梅宮神社 埼玉県狭山市上奥富
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