隼人の流れを汲む者? 春日神を守る脊属で、強力な攘災神
隼神社 奈良県奈良市角振新屋町44
[住所]奈良県奈良市角振新屋町44
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隼神社(はやぶさじんじゃ)は、奈良県奈良市角振新屋町にある神社。御祭神は隼総別命。御朱印の有無は不明。

社名と御祭神を見た際、『古事記』に描かれた第15代応神天皇の皇子である速総別命を祀る社かと思ったが、違うらしい。

御祭神は別名、角振隼総明神・角振隼総別命とも呼ばれ、角振神と隼神の2柱を指すという。

角振神は、火酢芹命の御子とされる。『古事記』のみに記載される、海幸彦の弟、山幸彦の兄。三兄弟の父は邇邇芸命

ただし、「隼神は父なり」とされる。これは角振神の父、つまり火酢芹命のことなのか、火酢芹命の父、つまり邇邇芸命のことなのか、は微妙。おそらく前者だろう。

『日本書紀』では、火酢芹命は記載されない代わりに、一書曰くにおいて、隼人の祖とする記述がある。

『古事記』では海幸彦が隼人の祖となるが、この辺りは混同しているらしい。どちらにしろ、角振神は隼人の祖神で、隼神はその祖ということだろう。

隼人の祖がこの地に祀られているのは不詳。隼人の流れを汲む集団がこの地に移住、その後、藤原氏に与したと考えられる。

というのも、現在までに角振隼総明神は春日の脊属として定着しているため。しかも、春日を守る強力な攘災神として。

いわば藤原氏のボディーガードとして活躍したことが想定され、実際にそうした説話はいくつか残されている。

角振隼総明神を祀る神社は現在までにそう多くはなく、春日大社末社に本宮椿本神社があり、また当社があるのがほとんど全て。

京都市に鎮座する当社と同名の式内社は、当社の分祀とされるが、建甕槌神を主祭神とし、経津主神を配祀している形で、もはや隼人色はなく、春日色のみ。

しかも、春日色のわりに天児屋根命が含まれないのは、建甕槌神・経津主神という記紀記載の神々までも、春日の脊属、ということを示すものか。

また、春日の脊属が珍重され、平安京遷都の際に分祀され、丁重に祀られて、さらに式内社に列するまでになったということも奇妙。

それだけ藤原氏の威勢が強かったとも言えるが、当社の神がよほどの霊験があったとみられる。例えば、官位五位以下の、人であり人ではないものに対する効果、とか。

ともかく、当社について、『大和志』によれば、昔は春日山にあり、椿本の神祠だったという。これは今の春日大社末社のことだろうか。

いつごろか当地に遷座したが、当初の祠は治承4年(1180年)の兵火で炎上し焼失。その後、御神木を祀るようになった。

いつの頃からか御神木の東に弁財天の小祠が設けられ、現在宗像神社(市杵島姫命)として配祀されている。これはもと神宮寺の庭内社だとされる。

さらに鎌倉時代の建治4年(1278年)、興福寺の大火で再度の火難に類焼し、ついに現状の小祠となったという。

確かに現在は極めて小規模だが、現在に至るまで地名が当社由来のものになっている以上、往時は盛況だったことが推定される。

現在、柿の枯樹に注連縄を張って御神木とし、傍に新しい柿の木が植えられている。柳が御神木であったこともあるとされている。

『奈良坊目拙解』によれば、柿の大木を御神木として毎年正月に注連縄を張り、毎月朔日を縁日としていたという。

『奈良曝』によれば、「毎月朔日ことに町のとしより、ゑぼしすわふを着して御供御酒をそなへしか、中比より上下ニりやくせり」だったという。現在の例祭は8月1日。

社務所の奥には延命地蔵と呼ばれる地蔵菩薩像が祀られている。平素は施錠された厨子に収められており、両開きの扉内部には四天王像が描かれている。

毎月24日に阿弥陀寺の住職による法要が行われる。像高は73センチで、平安時代後期に流行した、片脚を踏み下げて座る姿の半跏像。

檜材の寄木造で、目には玉眼がはめ込まれ、着衣の表面には鎌倉時代の特色が窺われる細かな文様が施されている。市の文化財に指定されている。

【ご利益】
厄災除け
隼神社 奈良県奈良市角振新屋町
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