少彦名命の上陸地の巨石を御神体石とした式内社、『万葉集』の歌
[住所]石川県七尾市黒崎町ヘ28-3
[電話]0767-59-1735 - 阿良加志比古神社
宿那彦神像石神社(すくなひこかみかたいしじんじゃ)は、石川県七尾市黒崎町にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「宿那彦神像石神社(能登国・能登郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
昔、当地の黒崎より西に約3.5キロの山崎の式内社である阿良加志比古神社の御祭神である阿良加志比古神が、塩焼きのために、釜の浜辺でたたずんでいた。
そこに、黒崎の沖合から光り輝いて小舟が寄って来て、神が乗船していた。それが少彦名命である。
少彦名命は大己貴命と別れ、関の断崖下の浜の一枚礁に上陸、この後、阿良加志比古神と協力して地方平定の大業を成し遂げた。
そのため、上陸地にあった巨石を御神体石として祀ったのが当社の創祀だという。
奈良時代の天平宝字8年(764年)、勅使藤原永平が神鏡2面を奉納したと伝えられている。また、奈良正倉院の御物、丹物の調庸銘が当地名に合致している。
『万葉集』に収録されている、大伴家持の歌は、当地近辺を歌ったものとの説がある。
御神体石は、縦七尺二寸(約2.1メートル)、下幅三尺八寸(1.1メートル)、上幅二尺五寸(0.75メートル)の巨石だという。
明治42年(1909年)に現在地にあった諏訪神社(健御名方命)を合祀し、昭和23年(1948年)4月に御神体石を残したまま旧諏訪神社の地に移転した。
昭和39年(1964年)、国道の新設にともなって、御神体石は約120メートル南東へ移し、コンクリートの小祠に納めた。
例祭は、4月17日が春季町内神幸祭、10月6日が秋季例祭。現在は阿良加志比古神社が兼務している。
なお、式内社「宿那彦神像石神社」の論社は他に、鹿島郡中能登町金丸に同名の神社がある。また、同社と似たような伝承を久麻加夫都阿良加志比古神社が一社で残す。
【ご利益】
水難除け、海上安全、大漁満足、病気平癒
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・石川県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、石川県に鎮座している神社の一覧
[電話]0767-59-1735 - 阿良加志比古神社
宿那彦神像石神社(すくなひこかみかたいしじんじゃ)は、石川県七尾市黒崎町にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「宿那彦神像石神社(能登国・能登郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
昔、当地の黒崎より西に約3.5キロの山崎の式内社である阿良加志比古神社の御祭神である阿良加志比古神が、塩焼きのために、釜の浜辺でたたずんでいた。
そこに、黒崎の沖合から光り輝いて小舟が寄って来て、神が乗船していた。それが少彦名命である。
少彦名命は大己貴命と別れ、関の断崖下の浜の一枚礁に上陸、この後、阿良加志比古神と協力して地方平定の大業を成し遂げた。
そのため、上陸地にあった巨石を御神体石として祀ったのが当社の創祀だという。
奈良時代の天平宝字8年(764年)、勅使藤原永平が神鏡2面を奉納したと伝えられている。また、奈良正倉院の御物、丹物の調庸銘が当地名に合致している。
『万葉集』に収録されている、大伴家持の歌は、当地近辺を歌ったものとの説がある。
題詞これらの由緒は、阿良加志比古神社と共有しており、由緒通り、両社が対の神社だったことが分かる。
珠洲郡より船を発し、治布に還る時に、長浜の湾に泊まり、月の光を仰ぎ見て作る歌一首
歌
珠洲の海に 朝開きして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり
御神体石は、縦七尺二寸(約2.1メートル)、下幅三尺八寸(1.1メートル)、上幅二尺五寸(0.75メートル)の巨石だという。
明治42年(1909年)に現在地にあった諏訪神社(健御名方命)を合祀し、昭和23年(1948年)4月に御神体石を残したまま旧諏訪神社の地に移転した。
昭和39年(1964年)、国道の新設にともなって、御神体石は約120メートル南東へ移し、コンクリートの小祠に納めた。
例祭は、4月17日が春季町内神幸祭、10月6日が秋季例祭。現在は阿良加志比古神社が兼務している。
なお、式内社「宿那彦神像石神社」の論社は他に、鹿島郡中能登町金丸に同名の神社がある。また、同社と似たような伝承を久麻加夫都阿良加志比古神社が一社で残す。
【ご利益】
水難除け、海上安全、大漁満足、病気平癒
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