麻底良山鎮座、『日本書紀』記載の朝倉社、近郷では高神様と尊崇される
麻氐良布神社(福岡県朝倉市杷木志波5456)
[住所]福岡県朝倉市杷木志波5456
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麻氐良布神社(まてらふじんじゃ)は、福岡県朝倉市、標高295メートルの麻底良山山頂にある神社。麓に下宮、中腹に中宮がある。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 西海道神 筑前国 上座郡「麻弖良布神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。

『日本書紀』斉明天皇の条に、下記の記述があり、この中の「朝倉の社」が当社のことだという。
天皇が朝倉の宮に移られた時、朝倉の社の木を切ってこの宮を建てた。そのため雷神が怒って御殿を壊した。

宮殿内に鬼火があらわれ、多くの者が病で死んだ。天皇が崩御された時、朝倉山の上に鬼があらわれ、大笠を着て喪の儀式を覗いていた。
ただし、斉明天皇伝承が多く残る高知県高知市朝倉の朝倉神社も、この『日本書紀』の「朝倉社」を主張する。

当社に関し、『日本書紀』の記述からは、雷神であり、鬼ではあるが、「マテラフ」という社名から、「天照(アマテル)」と関連付け、日神信仰とする説もある。

御祭神は、伊弉諾尊月夜見尊天照大神素盞嗚尊蛭子尊。例祭は、3月15日と10月16日。

詳細な由緒は不明だが、戦国時代には麻底良山には秋月氏16代当主秋月種実が大友氏に備えて築いた麻底良城があったという。

天正15年(1587年)には小早川隆景の持城となり、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、黒田長政が筑前国に入国すると、筑前六支城の一つとなった。

元和元年(1615年)、一国一城令により廃城となった。相応の城を社域に構えられていたことから考えても、当社は相当衰微していたことが考えられる。

慶長5年(1600年)、黒田氏筆頭家老栗山利安が祭田を寄進し、続いて鎌田昌生が郡主となった元禄年間(1688年-1703年)に本殿・拝殿が再興された。

現在まで、近郷における高神様と称され、年間を通じて参詣登山者が多いという。明治5年(1872年)、郷社に列した。

山頂に連なる石階段の下には末社として、筑前国式内10社が祀られている。総社のような機能があったのだろうか。

現在は、末社12社とあるので、筑前国式内10社を除く他に2社があるのだろうか。

【ご利益】
地域振興、地域安全、厄災除け、開運招福
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