蔵王山の山形側の熊野信仰、熊野岳山頂、瀧山・酢川温泉神社と三社一宮
[住所]山形県山形市大字上宝沢2762-1
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蔵王山神社(ざおうさんじんじゃ)は、山形県山形市上宝沢の蔵王連峰主峰である標高1841メートルの熊野岳山頂にある神社。御祭神は須佐之男命御朱印の有無は不明。

飛鳥時代の天武天皇9年(680年)、奥羽山脈の宮城県側の不忘山に権現社が建立された。

持統天皇4年(690年)、役小角が吉野の金峯山寺から金剛蔵王大権現を勧請して、宮城県側の刈田岳山頂に祀った。

これが蔵王大権現社で、後の刈田嶺神社となった。これ以降、修験道の修行の場となった当地の奥羽山脈は「蔵王山」と呼ばれるようになった。

「蔵王山」の山形県側では、奈良時代直前の慶雲5年・和銅元年(708年)、当社の前身である熊野神社が熊野岳に建立された。

熊野修験の信者からは、吉野・大峰山に対して「東のお山」と呼ばれている。熊野神社には、後年熊野権現と白山権現も勧請された。

和銅5年(712年)には、山形市下宝沢に三乗院が作られて山岳修験の拠点となり、平安時代の承和年間(834年-847年)に、酢川神社が創建された。

また、嘉祥4年・仁寿元年(851年)に慈覚大師円仁が瀧山を開山。これ以降、当社は、瀧山(本宮)、酢川神社(口ノ宮)、熊野神社(離宮)の三社一宮となった。

三社一宮は熊野信仰、熊野三山の影響とみられる。酢川神社は現在の酢川温泉神社である。

後に、瀧山の周辺には300坊と呼ばれるほどの宿坊が立ち並び、蔵王修験の中心となった。しかし瀧山は、鎌倉時代、北条時頼(1227年-1263年)の不興をかったため閉山を命ぜられた。

瀧山としては、山麓に移転し、もともと瀧山の1坊であった岩波の天台宗新福山石行寺、そこから分かれた天台宗医王山瀧山寺、瀧山神社として現存している。瀧山山頂にもささやかな社がある。

瀧山寺境内には、巨大な蔵王山板碑がある。市内には、いくつか瀧山を遥拝する石鳥居が残されており、往時の繁栄をしのぶことができる。

瀧山に関しては、蔵王権現と切り離し、「瀧山信仰」だったとする説もあるが、現在も続いている瀧山の例大祭は、当社と瀧山神社が合同で行っている。

昭和27年(1952年)、当社は熊野神社から現社号に改称した。当社の社殿は、木製の鳥居とトタン葺きのささやかなお宮が存在し、お宮の周りを石垣で固めている。

例祭は7月第2日曜日。毎年の山開きの日には、当社の氏子、刈田嶺神社の氏子の双方が、刈田峠駐車場に集い、ともに山の安全祈願を行っている。

三社一宮ではあるが、現在は、瀧山は閉山されて久しく、蔵王山神社は山頂にあるため、酢川温泉神社(大国主命少彦名命・須佐之男命・軻遇突智神)が三社を管理している。

酢川温泉神社が鎮座する、蔵王修験の拠点となった下宝沢には、今でも三乗院の末裔宅に「木造蔵王権現立像」が現存している。

毎年8月3日、山形花笠まつりの前夜祭に合わせ、この像を蔵王温泉の酢川温泉神社に遷座している。この日、蔵王温泉では「蔵王温泉夏祭り」が開催される。

なお、蔵王エコーラインを宮城側に少し下った通称「賽の河原」には、単立寺院である金峰山蔵王寺(延命地蔵尊)があり、役小角による創建であるという。

実際には、神仏分離によって刈田嶺神社から切り離され廃された寺を、昭和28年(1953年)に賽の河原に復興したものである。遠刈田温泉内に蔵王寺別院を置いている。

【ご利益】
身体壮健、健康長寿、病気平癒
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