早い段階で衰微した式内社、近世通じて祭祀、江戸後期には復興
冠嶺神社(福島県南相馬市原町区信田沢戸ノ内194)
[住所]福島県南相馬市原町区信田沢戸ノ内194
[電話]-

冠嶺神社(さかみねじんじゃ)は、福島県南相馬市原町区にある神社。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「冠嶺神社(陸奥国・行方郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。

創建不詳。御祭神は少彦名命。時代の流れとともに衰微し、小さな祠しか残されていなかったという。

江戸時代の宝永・正徳年間(1704年-1715年)の頃、祠官であった大田九太夫の家が絶えたため、羽黒派修験である山覚院が代わりに祭祀を行った。

天明年間(1781年-1789年)から住民が減り、文化年間(1804年-1818年)には村里も社殿もことごとく荒れ果てたという。

当地の農夫が御神体を民家の小祠へと遷座し、これを隠し、長年に渡り本山派修験の大学院が祀ったという。

時が経ち、この農家も絶えてしまったため、冠嶺神が村の小祠に祀られたということも忘れ去られてしまっていた。

他の村から佐藤氏という者がやってきて、冠嶺神を祀っていた農家の屋敷へ住み始めた。佐藤氏は農業を営みながら、坂嶺の山にある小祠を修理して祀った。

文化12年(1815年)、陸奥相馬中村藩11代藩主相馬益胤は、祠官社家と渡部美綱に行方郡内の式内社八座を調査し、特定するよう命じた。

その結果、「冠嶺神社」「益多嶺神社」を特定することができなかった。文政2年(1819年)にも再調査されたが、村人の警戒もあって、ついに不明となった。

安政年間(1855年-1860年)になり、二宮尊徳や二宮家が相馬へもたらした農業復興策「興国安民法」が奏功し、相馬藩の財政再建や荒廃した農村の復興が進んだ。

万延元年(1860年)の春、当社の宮祠復興が命じられ、会津の名工である匠人の上杉主殿頭が社殿造営を行った。

この頃には式内社「冠嶺神社」は当社に比定されたようで、論社とされた鹿島区上栃窪の同名神社に分祀したとの説もある。

また、他の論社に鹿島区北海老に鎮座する鶏足神社が式内社名を名乗っていたが、当社のみが往古から式内社名を継承し、その御神体の古さも証拠とされた。

社殿は常磐自動車道南相馬インターチェンジ西側の丘陵地に位置し、参道入口には第一鳥居があり、「冠嶺社」の扁額が掛けられている。そこから整備された石段を200メートルほど登ると第二鳥居がある。

拝殿・幣殿・本殿の社殿があり、拝殿には、虹梁や蟇股の龍・鳳凰・草木、木鼻の獅子などの彫刻がされている。本殿は流造。例祭は4月17日。

【ご利益】
病気平癒、地域振興
冠嶺神社(原町区) - 早い段階で衰微した式内社、近世通じて祭祀、江戸後期には復興
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