阿武隈川の神、陸奥亘理郡の四式内社の一つ、本殿は江戸後期の建立
安福河伯神社(宮城県亘理郡亘理町逢隈田沢字堰下220)
[住所]宮城県亘理郡亘理町逢隈田沢字堰下220
[電話]0223-34-1884

安福河伯神社(あふくかはくじんじゃ)は、宮城県亘理郡亘理町逢隈田沢にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

『延喜式神名帳』にある「安福河伯神社(陸奥国・曰理郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。

現在は、亘理神社の兼務神社である。

第12代景行天皇41年8月6日、日本武尊により勧請されたと伝わる。阿武隈川の治水用水・大和朝廷の北辺守護のために創建されたという。

創建当初は、現在地から東の逢隈田沢字宮原の阿武隈川のそば、常磐線の線路の西200メートルの堤防下に鎮座していたという。その後、現在の鎮座地である水上山の上へ遷座したという。

昔、神が西の山に畝を七つ立てていたので、七峰山(ななうねやま)となり、残りの三掴み分の土を放り投げてできた丘が、現在の鎮座地である水上山(三掴み山)だという。

阿武隈川の神である速秋津比売神を主祭神に、経津主神猿田彦命大年神を祀る。御祭神に関して、以下の伝承が残る。
ある日、山の神と川の神が出会った時、山の神は「ここまで山を作ってきたから、もっと北まで延長したい」といい、川の神は「この辺で川を海へと向かわせたい」と言った。

お互い一歩も譲らないので、近くの深山という山を早く10周した方の意見に従うということになった。

山の神と川の神が競争を始め、7周目に入ったところ、山の神がちょうど深山に咲いていたツツジに目を奪われ、ツツジの根に足を取られ転んでしまった。

山の神が転んで遅れを取った間に川の神がどんどん差をつけてしまい勝利したという。

そのため、川の神である当社付近から、阿武隈川は東に流れを変え、太平洋に向かうように流れていると伝えられている。

また、山の神は当社の対岸の岩沼市に鎮座する旧称深山大権現、千貫神社の御祭神の大山祇神であるという。
平安時代、清和天皇の貞観4年(861年)6月25日に官社に列し、正五位上を授けられた。

亘理郡の式内社は当社の他は、鹿島天足和気神社鹿島緒名太神社鹿島伊都乃比気神社の三社で、この三社はそのまま亘理鹿島三社。

往古は旧田沢村一円が神領地に指定されていたが、天正年間(1573年-1593年)に戦乱が相次いだ影響で神領地は廃絶した。

代々の領主からも篤く崇敬されており、慶長7年(1602年)には亘理伊達氏初代伊達成実が社殿を造営、その後も寛政5年(1793年)には12石6斗の寄進が行われた。

本殿は江戸時代後期の安政五年(1858年)に建てられたもので、彫刻も見事であることから町指定文化財となっている。

社名については、『貞観紀』に安福麻水神、『封内封土記』に阿部隈明神社とある。

明治12年(1879年)6月に郷社に列し、明治40年(1907年)3月には幣帛供進社に指定された。

現在は、宮原水神社の水波能売神、森房早川神社の天之御中主神高皇産霊神神皇産霊神を合祀している。

例祭は4月8日。もとは神幸で、田沢より南の亘理町に至り東折して荒浜港へ御着、汐の行事を行い、更に本社に還る例があったが、現在は地域内のみ渡御する。

6月30日の夏越祭では、茅輪に火を点じ、夕方から深夜にかけてこれを潜り、悪疫消除を祈念した神事があったが、現在は廃絶。

また、田植使舞報告祭は6月20日前後に早苗を献じ、五穀の豊饒を祈る風があり、氏子の農家は裏作をしないという禁忌があるという。

本殿南側には子安神社(木之花咲耶比売神)が鎮座しており、境内には神輿庫がある。

【ご利益】
五穀豊穣・商売繁盛、厄災除け、交通安全、安産
安福河伯神社 - 阿武隈川の神、陸奥亘理郡の四式内社の一つ、本殿は江戸後期の建立
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安福河伯神社の御朱印