西郷隆盛が入水を決意した故事の「現場」、もとの心岳寺、島津歳久最期の地
[住所]鹿児島県鹿児島市吉野町10691
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平松神社(ひらまつじんじゃ)は、鹿児島県鹿児島市吉野町にある神社。もとの心岳寺で、島津歳久の自害(殺害)の地であり、島津歳久と、その際の殉死者27名を祀る。近代社格では郷社。御朱印の有無は不明。

島津歳久は、島津氏第15代当主島津貴久の三男で、兄に島津義久・島津義弘がいる。日置家の祖。

天正8年(1580年)、祁答院十二郷(佐志・湯田・時吉・虎居・平川・船木・久富木・鶴田・紫尾・柏原・求名・中津川)1万8000石の領主となり、当地をよく治めた。

しかし、豊臣秀吉に対しては島津家主流から外れて徹底的に反抗の意志を示したとされ、これにより、天正20年(1592年)、兄・義久の追討を受け殺害された。

本人は自害を望んだが、当時中風を患い身体が不自由だったため、何度か自害を試みたものの果たせなかったと伝わる。また、秀吉への反抗について否定的な遺書が見つかったともいう。

歳久の首は秀吉の命令によって京都の一条戻橋に晒されたが、程なく持ち去られ秘密裏に京都の浄福寺に埋葬された。

秀吉が死んだ直後の慶長4年(1599年)、義久によって歳久の最期の地、つまり当社地に菩提寺が建立され、歳久の戒名の一部を取って心岳寺と号された。

旧薩摩藩内では歳久の生き様から多くの藩士の崇拝を受け、島津義弘を信仰する妙円寺詣りと同様、心岳寺詣りが盛んに行われた。

しかし、心岳寺詣りは信仰の他、西側の裏山から断崖絶壁を下るという厳しいもので、軍事教練の意味合いが強かった。その中で幕末、頭角を現したのが西郷隆盛である。

隆盛が安政の大獄で捕縛対象となった際、歳久の故事にも似た絶望的状況に悲観して入水自殺を決行した。隆盛は蘇生し、奄美への遠島処分となった。

隆盛は復権した際、この自らを歳久に擬えた行動によって、伝説の不世出の指導者と目され、カリスマとなって明治維新の原動力となった。

明治3年(1870年)、心岳寺は寺号を廃して、現社号に改称して神社となった。現在は心岳寺跡として、史跡指定されている。

歳久は福昌寺で供養された。歳久の遺体は最初帖佐の総禅寺に埋葬されたが、心岳寺の創建に合わせて心岳寺に改葬され、後に浄福寺の遺体もこれに合一された。さらに改葬され現在では心岳寺とは別の場所に墓所がある。家臣の墓所は心岳寺にある。

歳久は「戦の神」として祀られた一方、切腹の際に中風のために刀が握れず傍らの石を握って自害しようとしたといい、その時に「女もお産の時に苦しい思いをする。自分の死後はそういった女の苦しみを救ってやろう」と言ったとされる逸話から、「安産の神」としても信仰される。

祁答院十二郷には現在、、やはり歳久を祀る大石神社があり、大石神社の境内にある蘇鉄は、紀元2600年記念の際に当社より移植されたものである。

心岳寺詣りは現在、復活の機運が高まっているものの、妙円寺詣りの再興ほど確固としたものとはなっていたない。しかし、大石神社も含め、歳久に対する信仰は現在も確実に息づいている。

【ご利益】
武運長久・勝運、安産
平松神社 - 西郷隆盛が入水を決意した故事の「現場」、もとの心岳寺、島津歳久最期の地
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