鎌倉期創建の「新正八幡宮」、島津義弘の崇敬、10月に浜下り神事
[住所]鹿児島県姶良市鍋倉1129の1
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八幡神社(はちまんじんじゃ)は、鹿児島県姶良市鍋倉にある神社。近代社格では郷社。御朱印の有無は不明。

鎮座地から鍋倉八幡神社(なべくらはちまじんじゃ)や帖佐八幡神社(ちょうさはちまじんじゃ)とも呼ばれる。

鎌倉時代後期の弘安5年(1282年)頃、京都の石清水八幡宮から下向した善法寺法印了清が同八幡宮を勧請した。御祭神は、応神天皇神功皇后玉依姫命

善法寺了清は、石清水八幡宮の祠官の一族であったが、当時、石清水八幡宮と関係が深かった大隅正八幡宮(現 鹿児島神宮)領の帖佐郷平山村の領家職として当地に来訪。

石清水八幡宮の神璽を奉じ、一家眷族、僧侶、医者、大工、染師、土器師など873人を率い、船で帖佐松原八幡江湖に到着した。

更に別府川を遡り、清泉が湧き出している折橋山山上を社地に定めて創祀、大隅正八幡宮に対して、新たに勧請した八幡宮ということで「新正八幡宮」と称した。

了清は、八幡宮の脇に、平安山八流寺増長院を別当寺として建立。更に付近に平山城(平安城)を築き、地名から平山氏を名乗り、一族を各地に配し、帖佐郷を支配した。

境内の大銀杏は、平山了清が植えたものと伝えられ、樹齢700年以上、高さ14.5メートル、樹幹目通り7.1メートル、根廻り11.4メートル。市の天然記念物に指定されている。

享徳年間(1452年-1455年)から長禄年間(1457年-1461年)に、平山氏は島津氏との戦いに破れて指宿へと移され、当社も衰微した。

しかし、島津氏第17代当主島津義弘が帖佐郷在住時に当社を崇敬し、関ヶ原の戦いから生還できた報賽として祭事を再興、三十六歌仙額を奉納した。

この三十六歌仙額が現存し、歌の筆者は島津忠恒、絵師は市来家鎮で、市の文化財に指定されている。

10月25日に、平山氏の子孫とされる薩摩川内市の平山家を招き、浜下り神事を行う。松原地区(姶良町東餅田)にある御門神社まで、神輿が浜下りを行う。市指定無形民俗文化財。

もとは旧暦旧9月19日だった。起源は、島津義弘が寄進した神輿で、勧請の際、最初の着船地となった帖佐松原の浜まで神幸祭を行なったことによる。

一時途絶えていたが、寛延2年(1749年)に氏子などの協力により神輿を再興し、旧に復した記録がある。現在でも盛大に斎行される。

【ご利益】
厄災除け、一族・子孫繁栄、地域振興
八幡神社(姶良市) - 鎌倉期創建の「新正八幡宮」、島津義弘の崇敬、10月に浜下り神事
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