仲哀天皇が駐屯、平安末期に河野氏が創祀、800年の歴史ある「サイ上リ神事」
[住所]山口県下関市彦島迫町5-12-9
[電話]083-266-0700

彦島八幡宮(ひこしまはちまんぐう)は、山口県下関市にある神社。下関が九州と結ぶ関門海峡よりも西に位置する彦島に鎮座する。近代社格では。参拝すれば、御朱印を頂ける。

平安時代末期の平治元年(1159年)10月15日、伊予水軍の祖越智高縄城主河野通清の末裔で、本島開拓の祖である河野通次が自ら祭主となり、宇佐神宮より御祭神を勧請、祭祀したのが創祀。

御祭神は、仲哀天皇応神天皇神功皇后仁徳天皇

一名を灘八幡といい、沖合を通過する船は必ず「半帆」の札をとったといわれ、造船、漁業関係者の崇敬が厚く、また、安産の神として別名子安八幡と崇められた。

そもそも当地は、遠い昔、仲哀天皇と神功皇后の熊襲征伐ゆかりの地。「仲哀天皇御駐蹕聖蹟の碑」が今でも残る。

もとは引島とも呼ばれ、幕末に彦島と正式に改められたという。また、当地には山幸彦の伝承も残るという。

保元の乱(1156年)に敗れた河野通次が来島し、保元2年(1157年)、海中を照らす光り輝くものを見て引き揚げてみると鏡で、その裏には八幡尊像が刻まれていた。

そこで通次はこれを本尊とし、この本尊を祀るために光格殿をもうけたのが当社の始まりだと伝わる。

その後「彦島十二苗祖」と呼ばれる植田治郎、岡野将監、百合野民部、和田義信、登根金吾、富田刑部も来島し、定住した。

永暦元年(1160年)10月15日、通次は甲胄を着て、弓を取り、郎党、家人に榊を持たせ社前に拝し、武運長久と一族の繁栄を祈った。

その後、大いに舞い踊り、「我等が守り本尊『サァ揚らせ給う』」と大声で唱えた。そこで旧社地だった小島が舞子島と呼ばれるようになる。

そして、これが「サイ上リ神事」の始まりとなった。現在も10月の例大祭で斎行され、市の無形民俗文化財に指定されている。

南北朝時代の正平4年(1350年)2月3日夜、通次四代孫の河野道久の代に八幡大神の託宣があり、舞子島から現在地に遷座した。

例祭は10月第3土・日曜日。例大祭で10月21日が本祭であり、「サイ上リ神事」がある。彦島歴史ウォークなどのイベントもあり、下関ならではのふぐ鍋のふるまいもある。

秋の例大祭では、御神幸祭行列で当宮創祀に関わった末裔が全国より集まり、裃姿や特殊装束を着装し、代々各家に伝わる神宝を手に御旅所まで静寂のままに御巡幸する。

7月に夏越祭がある。29日が前夜祭で、30日が御神幸祭。西日本最大級の海上渡御が行われる。御座船が約50隻の共船を従え、きらめく夏の海を渡る姿は、豪華絢爛勇壮。

なお、海上自衛隊のミサイル艇「わかたか」「しらたか」の艦内神社に分祀。「わかたか」の艦内神社は他に、北海道余市郡余市町の余市神社を勧請している。

【ご利益】
厄災除け、大漁満足・商売繁盛、武運長久・勝運(公式HP
彦島八幡宮 - 仲哀天皇が駐屯、平安末期に河野氏が創祀、800年の歴史ある「サイ上リ神事」
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