陸奥国分寺の守護神、田村麻呂の祭祀、頼義父子が必勝祈願
八幡神社(宮城県多賀城市宮内1-2-50)
[住所]宮城県多賀城市宮内1-2-50
[電話]022-362-8607

八幡神社(はちまんじんじゃ)は、宮城県多賀城市宮内にある神社。誉田別尊息長帯比売命・比売神を祀る。近代社格では郷社。御朱印の有無は不明。

江戸時代の宝永4年(1707年)に火災に罹り、社殿や社蔵の古記録を失ったため、由緒は不詳。

奈良時代、元正天皇の養老5年(721年)、諸国に国分寺が建立された時、別当寺磐若寺とともに末松山に勧請したとされる。

そうであれば、陸奥国分寺の守護神であり、国分八幡宮の一つ。また、一国一社の八幡宮、いわゆる国府八幡宮は陸奥国では不詳のため、当社が兼ねた可能性もある。

あるいは、平安時代の延暦年間(782年-806年)、坂上田村麻呂の遠征において、この地に豊前国宇佐を勧請したとも。

もともとは松島にあったもので、国史にある宮城郡松島八幡だったとも。それを田村麻呂が末の松山に移し建て、祭祀をしたとも伝わる。

俗称は末松山八幡宮ともいい、興の井八幡などと称した。当社付近は田村麻呂が軍を屯集させたところと伝えられ、方八丁と呼ばれた。

源頼義・義家の父子も前九年の役(1051年-1062年)に際しては田村麻呂の古例にならい、この方八丁に兵を置き、弓懸を奉納、当社に必勝を祈願したという。弓懸八幡とも。

鎌倉時代になり、建保年間(1214年-1219年)に源頼朝はこの地を留守伊澤氏の家人平右馬介に与え、右馬介が末松山に城を築く際に、当社を現在地に移した。

当時祠田2000石、子院24、祠官30人と伝わる。伊澤氏の領土から外れた当社はしかし、次第に衰微した。

天童頼澄が伊達政宗の臣となり、慶長年間(1596年-1615年)に当地に封じられると、伊達家の崇敬を得て、貞享元年(1684年)6月、陸奥仙台藩4代藩主伊達綱村は当社を再建。

先に触れた宝永4年の火災を経て、5代藩主伊達吉村(在位:1703年-1743年)が社参、短冊と鉄砲玉が奉納され、これが現存する。

境内には騎馬場があって、田村麻呂の子である千熊が騎馬をしたともいう。現今の馬場は例祭のおり、流鏑馬をしたところだが、現在は途絶している。

明治になり、郷社に列し、明治43年(1910年)3月、神饌幣帛料供進社に指定され、後に付近の小祠2社を合祀している。

平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災では、当社付近は津波被害が深刻だった地域の一つ。当社も一時は完全に水没したという。しかし、当社の社叢が津波被害の更なる拡大を食い止める役割を果たしたともいわれている。

その鎮守の森も震災の影響で失われたが、平成27年(2015年)6月14日、鎮守の森を再生させようと、地域住民・ボランティア約1000人が集まって6024本の苗木の植樹が行われた。

例祭は4月17日。1月14日にはどんと祭がある。境内地は全体が八幡沖遺跡の一部となっている。

【ご利益】
必勝祈願・勝運、地域・家内安全、復興
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