物部一族が祭祀、大和「中つ道」の式内大社、境内にも三式内
[住所]奈良県磯城郡田原本町大字蔵堂字大宮426
[電話]0744-32-3308

村屋坐弥冨都比売神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)は、奈良県磯城郡田原本町にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

『延喜式神名帳』にある「村屋坐弥富都比売神社(大和国・城下郡)」に比定される式内社(大社)。近代社格では県社

創立の年代は不詳。大和三道の一つ「中つ道」(橘街道)に面して鎮座している。三穂津姫命(別名:弥富都比売神)を主祭神とし、大物主命を配祀する。

三穂津姫命は大国主命の后神であり、記紀神話では大物主命と大国主命は同神としている。大物主命は大神神社の御祭神であり、その后神を祀る当社はその別宮とされる。

『日本書紀』によれば、天武天皇元年(673年)の壬申の乱の時、村屋神が大海人皇子方の大伴吹負に「敵が来るので中つ道を防げ」と神託をした功績により神階が授与された。

境内に三つの式内社がある。当然のことながらいずれも大和国城下郡。「村屋神社」「服部神社」「久須須美神社」である。

村屋神社は、経津主神武甕槌神・室屋大連神・大伴健持大連神を祀る。春日神社とも。大連二神は壬申の乱に、吉野軍の将として活躍したため、天武天皇5年(678年)に合祀された。

当地森屋郷は、古くは室屋郷とも室原郷とも言い、室屋大連神はこの地の出身だと考えられている。

もとは当社から200メートルほど東、初瀬川の川べりに鎮座していたが、南北朝時代に兵火に遭い、神領が没収されたため、当社地に遷座した。

服部神社は、天之御中主神・天之御鉾神を祀る。服飾関係を司る神。もとは当社西方2キロほどにある大安寺村字神来森という地に鎮座していた。

やはり南北朝時代の元弘年間(1331年-1334年)に兵火に遭い、社地が没収され、天正年間(1573年-1592年)にも、織田信長の兵火に罹り、当社地に遷座した。

久須須美神社は、天之久之比神・事代主神・経津主を祀る。若宮と呼ばれ、また通称は恵比須神社。今の蔵堂橋の南のたもとに鎮座、伊豫氏(伊予戸氏)の氏神だった。

やはり信長の兵火に罹り衰微、田原本藩が出来ても商人の流出が加速して廃れた。明治期になり、当社地に遷座した。

また、境内の池の真ん中の島には物部神社が鎮座する。御祭神は、邇藝速日命の妻と子である炊屋姫命宇麻志摩遲命で、物部守屋連を配祀する。由緒は不詳。神主の祖神を奉斎したものと伝わる。

森屋、室屋、守屋とすべて同じことを指しているのではないかという気もするが、物部に関わる社であることは間違いなさそうだ。

昭和2年(1926年)に県社に昇格した。例祭は10月、9日が宵宮で、10日が本祭。この秋季例大祭では巫女が平神楽、扇の舞、剣の舞、矛の舞など、代々伝えられてきた神楽を奉納する。

この代々神楽は、当社独自のもので、起源は平安時代まで遡るとされ、県中部地区に今でも残っている神楽舞いのほとんどの原型となったものとされる。

室町時代の観世氏は当地出身との説があり、観阿弥・世阿弥の父子により大成された「能」の発祥地ともされるが、その流れを汲むものともいわれる。

毎年2月11日には御田祭りが行われる。以前までは旧正月の10日に斎行されていた。牛使いの森講が牛男に扮した牛で田植えの準備を行い、神主が田植えを行う。

使った苗松は郷中の農家、参列者に配られ、巫女が豊作のお祝の神楽を奉納、最後は餅まきで終了する。かつては本物の牛に、オカメ・ヒョットコの面が使われ、田植え歌が歌われ、雨乞い踊りなどもあったという。

服部神社の前に立つ花崗岩四角形の灯籠は、現高185センチで、正面に「奉寄進 元和元年(1615年) 敬 森屋社御賓前大木左近尉 九月九日 白」の刻銘がある。町で一番古い年号の刻んだ灯篭だという。

もとは壮大な鎮守の杜と、大きい木々の社叢からなり、昔から「森屋の宮」「森屋さん」などと親しまれていたが、平成10年(1998年)の台風で被害に遭い、木が減少した。

【ご利益】
五穀豊穣・商売繁盛、無病息災、厄災除け(公式HP
村屋坐弥冨都比売神社 - 物部一族が祭祀、大和「中つ道」の式内大社、境内にも三式内
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村屋坐弥冨都比売神社の御朱印