平安期の創建、頼朝の再興、安土桃山期の旧本殿が現存、9月にほろ祭り
[住所]埼玉県川越市古尾谷本1408
[電話]049-235-1682

古尾谷八幡神社(ふるおやはちまんじんじゃ)は、埼玉県川越市にある神社。御祭神は、品陀和気命息長帯姫命・比売神である。近代社格では県社。古谷上2071として、全国東照宮連合会に加盟している。

御朱印については、押印型のものが一応あるので、タイミングが良ければ頂けるが、社務に詳しくない関係者に聞くと、「そうしたものはない」と返答される場合がある。

社記によれば、平安時代の天長年間(824年-834年)、慈覚大師(円仁)が当地に巡錫して灌頂院を興し、貞観年間(859年-877年)に再訪して神霊を感じ、石清水八幡宮の御分霊を祀ったのに始まると伝える。

元暦元年(1184年)、源頼朝は天慶の乱により荒廃した社域を見て、当社の旧記を尋ね、由緒ある社であるので崇敬すべしとして、祭田を復旧して絶えた祭祀の復興を計った。

また、文治5年(1189年)には奥羽征討のため陣中祈願を行い、鎮定後、社殿を造営した。古尾谷荘13カ村の総鎮守として古くから武将たちに崇敬されてきた。

古尾谷荘は鎌倉期に京都の石清水八幡宮の荘園とされたが、開発は在地領主である古尾谷氏。古尾谷氏については、鎌倉幕府の御家人として『吾妻鏡』にも登場する。

弘安元年(1278年)、藤原時景が社殿を再営し、梵鐘を鋳造して社頭に掛けた。

南北朝時代の正平7年(1353年)、古尾谷形部大輔は新田義宗、義興らが上野国で挙兵し鎌倉に攻め上るに当たり、参陣して当社に戦勝を祈り、佩刀を解いて誓約したという。この太刀は「瀬登の太刀」と名付けられ、長男信秀に奉献させた。

戦国時代の永禄4年(1561年)、長尾景虎が小田原城を攻略する際、古尾谷氏の主であった岩槻城主太田資正が先鋒を務めたため、当社及び灌頂院は小田原方に焼き討ちされた。

その後、太田氏の内紛により資正は嫡子氏資に追われ、家臣であった古尾谷氏も逼塞した。新たに小田原方についた太田氏資は、古尾谷氏の旧臣中筑後守資信に当地を任せ、天正5年(1577年)2月、資信は当社を再建した。

この安土桃山時代の再建の際の本殿が旧本殿として現存しており、県の文化財に指定されている。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉は後北条氏を降伏させ、徳川家康が関東に入府、翌年当社は50石の社領を安堵される。

江戸時代になり、元禄11年(1698年)には当社に東叡山寛永寺門主公弁法親王の命により、真如院梨隠宗順が菊紋の高張・張幕・海雀・鮑売の四品を献上する。

享保7年(1722年)、長く風雨にさらされ傷んだ本社及び摂末社は再建された。これが現在の社殿である。現在は県指定文化財。

天保4年(1834年)、今泉西蔵院良賢は、兵火により焼失した古鏡を改鋳し、再びこれを神前に掛けた。

明治初めの神仏分離により当社は別当天台宗灌頂院から離れ、明治4年(1871年)には郷社に列し、大正4年(1915年)に字氷川前の氷川神社と同境内社の八坂社を合祀、昭和4年(1929年)には県社に昇格した。

例祭は9月。敬老の日の前日にほろかけ祭りが行われる。ほろ祭りとして、県の無形民俗文化財に指定されている。起源は平安時代までさかのぼると言われる。

ほろ(ホロ)とは、ピンク色の笠のこと。36本の竹ひごにピンク色の和紙を付けたもので、毎年作られる。これを背負う子供のことを、ショイッコという。

15時ごろ、子供巫女を先頭に、ホロショイッコ、囃子屋台が列をなして当社境内に到着。その後、先頭は天狗、最後尾には神輿という一行が御旅所に向けて出発する。

御旅の際、ホロショイッコはお練りを始める。「ヨイショ!」の掛け声とともに、左へ右へ回転をする。これに先立ち、古谷本郷の獅子舞も当社で奉納される。

【ご利益】
地域・家内安全、安産・子育て、身体壮健
古尾谷八幡神社 - 平安期の創建、頼朝の再興、安土桃山期の旧本殿が現存、9月にほろ祭り
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古尾谷八幡神社の御朱印