日本武尊が熊襲征討時に命名した聖なる山、奈良期に熊野を勧請、源為朝も参籠
[住所]宮崎県延岡市行縢町748-ロ
[電話]0982-39-0219

行縢神社(むかばきじんじゃ)は、宮崎県延岡市行縢町にある神社。近代社格では郷社。日本滝百選の一つ「行縢の滝」の瀑布で有名な、標高830メートルの行縢山の登山口に鎮座する。山と滝を奥の宮とする。御朱印の有無は不明。

日本武尊が熊襲征討の折、この地の山の形が毛皮製の乗馬用下半身コートである行縢(むかばき)に似ていると言い、山の名前になったという。古来からの御神体山で、日本武尊が滝を詠んだとされる歌が伝わる。
布引の 箭筈の滝を 射てみれば 川上梟師 落ちて流るる
奈良時代の養老2年(718年)4月15日に紀州の熊野権現を勧請したもので、行縢山三所大権現と称して、伊弉冉命・事解男命・速玉男命の三座を奉斎した。

鎮西八郎源為朝が九州で活躍した際、平安時代末期の仁平・久寿年間(1151年-1156年)ごろ、当社に参籠して、武運長久を祈願、社領300貫を寄進したと言われ、社域に為朝腰掛け石がある。

領主土持氏の歴代の祈願所とされて崇敬され、鎌倉時代の永仁2年(1294年)4月8日付の平某補任状以下別当職に関する数通の古文書が残っている。

また、正和3年(1314年)に静全から別当職を譲られた慶全が、元弘3年(1333年)に熊野参詣のために別当の代行を願っている。

当時、別当・神主・下社家が奉仕しており、別当の住寺を行縢山大日寺と称し、多くの末寺を有していた。今でも行縢山中にその跡が点在している。

天正9年(1581年)、領主土持家と豊後府内の城主大友家との戦乱に、土持親成が行縢山を本拠として戦ったため、社域も戦場と化して、神殿・堂宇は悉く戦火のため炎上し、焦土となった。

しかし、大友氏とのかかわりは深く、宝徳元年(1449年)、豊後国守護の大友氏14代大友親隆が島津氏と日向で戦った時、当社に戦勝を祈願、凱旋後、現在の豊後大野市清川町の御嶽山山頂に当社を勧請している。現在の御嶽神社である。

戦国時代の戦乱を経て、以後、社運は衰退し、別当もこの地を去り、神職奉仕の神社となった。江戸時代になっても歴代領主の尊崇篤く、延岡藩主有馬直純は社領20石を寄進した。

しかし、三浦氏になり10石に減じられる。その後、内藤家に至る代々の領主の祈願所となり、大祭には直参、代参の制もあった。

社殿の造営も藩の事業として、宝暦2年(1751年)には内藤政樹が、宝暦9年(1758年)には内藤政陽が、それぞれ造営したことが棟札によってわかる。

明治4年(1871年)、村内に鎮座していた小社の山神社(大山祇命)など23社の御祭神を合祀し、翌明治5年(1872年)に郷社に列した。

この明治期の合祀で、御祭神は、面足命惶根命伊弉諾命水波女命・日本武命・素盞鳴命月読命大日孁貴命・大山祇命・彦火々出見命道真公倉稲魂命大己貴命・大田命・大宮姫命保食神大年神建御名方命軻遇突知命足仲彦命誉田別命大御中主命となった。

当社所蔵の鉄鰐口一口は、慶長10年(1605年)、延岡初代藩主高橋統種(元種)の息女による寄進という銘があり、径47センチ、総厚18.5センチ、撞座の径13.6センチで、県の文化財。

社殿の前に鎮座した奇妙な顔形の狛犬や、樹齢300年の夫婦杉、軒下に施された見事な彫刻や象鼻など、象徴的なシンボルが多く存在する神社としても知られている。

赤い幹の「バクチノキ」は宮崎の巨樹百選の一つ。

【ご利益】
蘇り、夫婦和合、リフレッシュ
行縢神社 - 日本武尊が熊襲征討時に命名した聖なる山、奈良期に熊野を勧請、源為朝も参籠
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