豊臣秀吉と黒田氏に謀殺された城井谷城主宇都宮家の最後の当主・城井鎮房
[住所]大分県中津市二ノ丁
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城井神社(きいじんじゃ)は、大分県中津市の中津城址内にある神社。豊前国の戦国大名で城井谷城主、怪力無双の人物で強弓の武将と言われる宇都宮鎮房(城井鎮房)を祀る。参拝すれば、御朱印を頂ける。

城井谷城主宇都宮家は信房より鎮房に至る16代、およそ400年の間、豊前国守として徳政を布いたという。

天正15年(1587年)5月、豊臣秀吉が九州平定にあたり、豊前六郡を黒田孝高(黒田官兵衛・黒田如水)に、二郡を毛利勝信に与え、鎮房には四国今治12万石への移封が命じられた。

鎮房は累代の墳墓の地の安堵を願い、秀吉の命を退けて宇都宮一族の総力を挙げて黒田氏、孝高とその子の長政の間に死闘を繰り返し、黒岩山合戦(峯合戦、岩丸山の戦い)では長政を敗退させた。

秀吉は孝高と謀り、所領安堵を条件として、長政と鎮房の息女千代姫(鶴姫)との婚を約し、和睦した。

しかし、天正16年(1588年)4月20日、鎮房は中津城に招かれ、酒宴の席で謀殺される。その後、鶴姫も殺害され、父も殺されたが、懐妊していた妻が逃れたため、血脈は続くことにはなった。

天正19年(1591年)、事件から3年という微妙な時期、おそらく祟りがあったのだろう、長政は城内守護紀府大明神(城井大明神)として鎮房を祀る。福岡移封後はその地に警固大明神として祀った。

福岡の警固大明神で、長政ともゆかりの深いものに警固神社がある。その由緒や御祭神は当然、鎮房やその一族とは関係ないものの、長政個人による何らかの投影はあったのかもしれない。

寛永2年(1705年)、豊前中津藩4代藩主小笠原長円は社を建て、城井大権現として崇敬、その後何度かの変遷を経て、一時は衰微することもあったようだが、大正年間(1912年-1926年)には再興し、現社号に改まった。

中津城には当社の他、当社の境内末社で鎮房一党を祀る扇城神社や、奥平神社中津大神宮がある。中津大神宮は当社を境内社としており、中津大神宮が当社を管理していると思われる。

中津城主は何度か代わり、最終的には奥平氏の藩政となるが、明治維新を経て、現在に至るまで、時を経てもなお、当社における鎮房や、扇城神社におけるその一党の祭祀が続けられているところに、当地における凄惨な歴史の痕跡がとどまっているように感じる。

【ご利益】
地域・家内安全、諸願成就
城井神社 - 豊臣秀吉と黒田氏に謀殺された城井谷城主宇都宮家の最後の当主・城井鎮房
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城井神社の御朱印