鶴女市太郎の人柱伝説と平安期から続く花傘鉾神事、現在は8月最終土日
[住所]大分県中津市大字相原字坂手前3218
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八幡鶴市神社(はちまんつるいちじんじゃ)は、大分県中津市、旧藍原村にある神社。近代社格では郷社。御朱印の有無は不明。

山国川下流、同川が沖代平野(中津平野)に注ぐ地点の右岸に位置して小丘を意味する逆手隈と呼ばれる丘上に北面して鎮座する。鶴市神社・鶴市八幡宮とも称され、鶴女市太郎の人柱伝説が有名。

社伝によると、第29代欽明天皇25年(564年)の春、当地に住む宮島主殿(美屋島清宇道男人とも)という者が水戸神として秋津彦神秋津姫神の2柱を御毛川(現 山国川)の中州に祀ったことに始まる。

時を経ずして起こった旱害に際し、すでに豊前宇佐八幡宮の神領地とされていた当地に、同宮の押領使兼庄司として福永城を築いて居城としていた湯屋弾正在吉が氏の神である八幡神に祈願して害を治めた。

そこで欽明天皇34年、八幡神の夢告にしたがい、高瀬川(現 山国川)右岸、現社地の逆手隈に新たに水神として宇佐から八幡神(誉田別天皇)を勧請した。

平安時代の貞元2年(977年)9月に秋津彦・秋津姫両神を現社地に遷座して八幡神と合祭するようになった。

一時期社殿焼失により河原田に井手内の宮と称して遷座したものの応徳2年(1085年)に吉成という者によって再び現社地に還遷したという。

その後、保延元年(1135年)に高瀬川に大規模な井堰を築造することになり、その際にお鶴と市太郎(小市郎とも)という母子を人柱として堰に築き込めた。

それ以降、母子の犠牲に感謝するとともに、堰とそこから流れる水路及びその益に浴する沖代平野全体の守護神として、母子の霊を鶴市大明神として八幡神に配祀したと伝える。

江戸時代になり、細川忠興が中津藩藩主に封じられた後の元和2年(1616年)、当社に参詣して由緒を尋ねた。

大井手堰築造に深く関与したとされる湯屋氏の子孫、湯屋藤左衛門が当社縁起と堰の由来を記した『井手鈔』を編んで忠興に上呈した。

江戸期には旧金手村に御神霊を勧請している。現在の鶴一社(金手鶴市神社)である。

明治以前は八幡市神社と称したが、明治5年(1872年)2月に郷社に列するに際して鎮座地の地名を採って相原神社と改称、昭和12年(1937年)6月に神饌幣帛料供進指定を受け、その後現社名に改めた。

8月最終の土・日曜日2日間にわたって、沖代平野を巡る神幸祭が行われる。神幸はお鶴と小市郎の霊を慰めるとともに、当年の豊作を祈願するためのものとされる。

いわゆる花傘鉾神事であり、起源は平安時代の長寛2年(1164年)にまで遡るという。祭日は古く10月25日とお鶴小市郎の忌日である8月15日であったが、近年改められた。

傘鉾が供奉するようになったのは江戸時代の延宝8年(1680年)以降とされる。県の無形民俗文化財に指定されている。

拝殿の西脇に井手に、築き込められる直前にお鶴小市郎母子が腰掛けたという腰掛石が遺されている。

そこから眺める月は「腰掛石月」として、当社周辺の「七桜」「浮石若鮎」「三石納涼」「神木蛍火」「井堰朝露」「小島ヶ崎鷺」「鶴居山雪」と合わせて八景の勝地とされた。

【ご利益】
水害・干ばつ除け、五穀豊穣・商売繁盛、諸願成就
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