景行期に創祀、その子孫が今も祭祀する全国各地から崇敬された社
[住所]和歌山県海南市下津町方1101
[電話]073-492-2156

粟嶋神社(あわしまじんじゃ)は、和歌山県海南市下津町にある神社。別名は粟嶋大明神。淡嶋神社の系列の一つで、近代社格では村社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

少毘古那神を祀る。和歌山市加太に鎮座する淡嶋神社と同神であると伝える。当社は淡嶋神社を勧請したとも、あるいは深い関係にあることは間違いない。

社伝によれば、第12代景行天皇2年に少毘古那神が硯浦に漂着し、21戸の村民がこれを近くの森に鎮祭したのに創まる。当初の鎮座地は海中にあり、干潮時に干潟を伝って参詣したと伝える。

創祀に関与したこの21戸の村民の子孫が現在も祭祀を継承、後世には「大頭講」という宮座を結成し、現在も祭典に預かっている。

後に神功皇后が三韓征伐の折に産気づき、凱旋するまで出産がないようにと当社に勅使を派遣して祈願した。しかし、風浪のために渡島できず、遠くから奉幣せざるをえなかったという。

征伐なった神功皇后は凱旋中に船中で誉田別尊を出産し、それを祝って自ら矢の根で少毘古那神と大国主神の神像を刻み、帰朝後に報賽として陣太鼓や着ていた「綾の唐衣」とともに奉納したという。社宝として伝わっている、とも。

鎌倉時代の文永年間(1264年-1275年)に硯浦から参拝の便をはかって現在地に遷座し、当時の浜中荘の領家である仁和寺から広い神地が寄進され、社殿は荘厳を極めた。

南北朝時代には九州に渡った征西将軍懐良親王が当社に祈願して海難を乗り切ったと伝わり、その地である大分県佐伯市米水津には現在、同名の神社がある。

その佐伯市の粟嶋神社の産子が、江戸時代の宝永4年(1707年)に参拝して奉納した金幣3体が現存する。

また、上州山田郷(現 群馬県桐生市)の信者によって寄進された神橋が現存しており、市指定文化財となっている。

江戸期までには全国規模の信仰のネットワークが確立していたことになる。近世には本地仏として虚空蔵菩薩が祀られていた。

境内に旧別当寺院である淡嶋山龍泉寺があり、明治の神仏分離を免れた神仏習合時代の名残をとどめている。

明治期には村社に列し、明治末年に周辺の五つの神社を合祀。後述のように境内には多くの境内社があるのはその名残。

境内社に、八幡神社(應神天皇)、蛭子神社・戎神社・浜戎神社(事代主神)、百拝神社、浜ノ宮神社(天照皇大神)、牛神社、道祖神社(猿田彦命)、厳島神社・辨天神社(市杵嶋姫命)、八坂神社(祇園天神)、傳神社、稲荷神社(倉稻魂神)、金刀毘羅神社(崇徳天皇)がある。

現在の例祭日は10月13日、あるいはその近い日で秋祭。4月3日にはひな祭が斎行される。9月上午の日には火頭祭がある。

【ご利益】
五穀豊穣、海上・交通安全、水難除け、病気平癒
粟嶋神社(海南市) - 景行期に創祀、その子孫が今も祭祀する全国各地から崇敬された社
【関連記事】
和歌山県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、和歌山県に鎮座している神社の一覧
粟嶋神社(海南市)の御朱印