神武天皇が奉斎した共鑰山、宇佐八幡を勧請、比売大神は玉依姫命
[住所]大分県宇佐市安心院町妻垣203
[電話]0978-44-2519

妻垣神社(つまがきじんじゃ)は、大分県宇佐市安心院町にある神社。宇佐神宮やその行幸会とゆかりが深く、宇佐神宮行幸会八社の一つである。近代社格では県社御朱印の有無は不明。

御祭神は、上宮であり当社発祥でもある足一騰宮に比咩大神を、下宮の一ノ殿に比咩大神を、二ノ殿に八幡大神、三ノ殿に神功皇后をお祀りしている。

平安時代の承和11年(844年)の『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』、つまり『承和縁起』によると、比咩大神は、宇佐神宮第二殿の比売大神と同神とされる。

ただし、宇佐神宮の比売大神が宗像三女神とされるのに対して、当社の場合は縁起にもある玉依姫命を比売大神としている。玉依姫命を祀る八幡の代表格である筥崎宮との関係もあるか。

初代神武天皇が東遷の折、宇佐の地に立ち寄り、宇佐国造の祖であるウサツヒコ・ウサツヒメの兄妹一行の歓待を受けた(『古事記』該当部分)。

翌朝、天皇は朝霧の素晴らしいこの地を気に入り、ひと際輝く共鑰山に母である玉依姫命の御霊を祀る社を建立し、「足一騰宮」と名付けたという。

現在も足一騰宮は共鑰山の8合目に、社ではなく玉垣に囲まれた大石として鎮座している。

社殿は奈良時代の天平神護元年(765年)10月8日、宇佐宮の八幡大神が勅使石川朝臣豊成に「我はすでに共鑰山に示現しているので社殿を設け祀るように」との神託を受けて創建された。

豊成は当地に社殿を造り、比咩大神・八幡大神を併せて祀る。また天長年間(823年-834年)に宇佐宮より神功皇后が勧請された。

創建の年とされる天平神護元年は、行幸会の始まりの年ともされ、それに合わせて勧請・建立されたとも考えられる。同じような由緒のある神社に、国東市に八坂神社椿八幡神社がある。

南北朝時代、嘉暦3年(1328年)、新田義貞に敗れ九州に逃れた足利尊氏は、宇佐宮に参籠し、武運の再興を祈願。当社にて流鏑馬の神事を行い、都へ反攻進撃し、後に室町幕府を開いた。

また貞治5年(1366年)、九州探題今川貞世(了俊)が共鑰山を始め、当社周辺での墓の建立・乱暴狼藉などを禁じた禁制を発布、現在も住民はこの禁制を守り続けているという。

戦国時代、天正9年(1581)、戦国大名大友氏の兵火によって社殿を始め、隣接する神宮寺などがことごとく焼失。その後社殿は黒田長政によって再建された。

続く細川・松平・奥平の各氏と歴代藩主の崇敬を受け、多くの地田も寄進された。明治時代に入ると、境内にあった神宮寺延命院は廃寺となる。

明治12年(1879年)9月19日、県社に列格。大正2年(1913年)4月には、社司林正木によって境内に私立騰宮学館が創設されたが、終戦により廃校となる。

その後、昭和38年(1963)まで続く騰宮女子専門学校と併せて、多くの神職教員などを輩出した。松本清張氏の耶馬台国小説『陸行水行』の舞台となったことでも知られる。

例祭は10月第4土曜日で、例大祭。翌日曜日とあわせて、神幸祭が執り行われる。平成27年(2015年)には御社殿創建千二百五十年式年大祭が斎行されている。

境内社に貴船社、種子山神社がある。境内には4基の鳥居があるが、第一鳥居より百段の石段を上がっていくとある第二鳥居は江戸時代初期の慶安2年(1649)年に寄進されたもの。

【ご利益】
子宝・安産・子育て、厄災除け(公式HP
妻垣神社(宇佐市) - 神武天皇が奉斎した共鑰山、宇佐八幡を勧請、比売大神は玉依姫命
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