神功皇后が大石に立たせた皇子が「穴門は近し」と発した社、飛鳥朝創建
[住所]福岡県北九州市小倉北区篠崎1-7-1
[電話]093-561-6518

篠崎八幡神社(しのざきはちまんじんじゃ)は、福岡県北九州市小倉北区にある神社。近代社格では県社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

現在は付近に北九州高速道路が走るなど交通のアクセスに恵まれ、北九州有数の神社として親しまれている。

第14代仲哀天皇9年、熊襲討伐の最中、天皇は筑前国訶志比宮(現 香椎宮)で崩御。その後、神功皇后が三韓を攻め、凱旋して筑前国宇美(現 宇美八幡宮)で皇子を出産。

後の第15代応神天皇である。翌年、穴門(長門)の穴門豊浦宮(現 忌宮神社)に向かう途中、鷹尾(高尾)山にさしかかり、山頂の大石に皇子を立たせたところ、「穴門は近し」と言ったという。

飛鳥時代の第30代敏達天皇12年(584年)、勅命によって、この故事に基づき高尾の麓の朝倉谷に、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇を祀り、葛城小藤丸を住まわせて祭祀に当たらせた。

当時は篠崎神社と称した。その後、天平2年(730年)、宇佐八幡宮から分霊を勧請し、現社号となった。

御祭神は、 応神天皇、神功皇后、仲哀天皇、宗像三女神多紀理比賣命市寸嶋比賣命多岐都比賣命)、玉依比賣命

八幡三神と言われるパターン(2柱+姫神)にははまらない、姫神2柱計4柱(神功皇后除く)を祀っている珍しい形式かもしれない。

宗像三女神は、後述する後年との兼ね合い、その際の合祀かもしれない。

天平12年(740年)、太宰少弐藤原広嗣の反乱において、官軍は豊前国板櫃川の東に陣を敷き、大将軍大野東人は当社で戦勝を祈願し、見事、賊軍を敗ることができた。

天平勝宝5年(753年)9月、太宰少弐藤原氏は、宝剣や神馬を奉納した、との記録が残る。文徳天皇の嘉祥3年(850年)に、当時祇園社があった宮尾山の現在地に遷座した。祇園社は現在も境内にある。

貞観12年(870年)、大中臣国雄が筑紫の宗像宮(現 宗像大社)に勅使として下降した際、当社にも品物を奉納した。

その時の勅使殿が、後に「皇の使い山」と呼ばれ、これが「鴻の巣」の字名になったという。

天慶4年(941年)の藤原純友の乱において兵火にかかり、社殿を焼失した。一説に、現在地への遷座は文治2年(1186年)だとも伝わる。

南北朝時代の貞和3年(1347年)3月の棟札に「将軍尊氏造立奉る」とあり、足利尊氏による社殿建立があった。また、永正8年(1511年)9月にも本殿造営の棟札があるという。

天正6年(1578年)11月に大友宗麟の兵火にかかり、社殿焼失。慶長5年(1600年)、細川忠興が社領20石を寄進、再興した。

その後、寛永9年(1632年)には小笠原忠真が神殿・拝殿を修造営。その後、社殿の造営は昭和46年(1971年)にもあり、計7回と記録されている。

明治6年(1873年)に郷社に列し、昭和2年(1927年)には県社に昇格した。

例祭は10月第4金・土・日曜日で、秋季例大祭。土・日曜の2日間は、地域の町内会による「子供みこし」の御神幸が執り行われ、それぞれの町内を練り歩く。

2月の節分祭においては巨大なお多福門が設置される。

社殿の左右にある大石は「力石」で、神功皇后が上に皇子を立たせたという故事に由来するもので、立身出世のご利益があるといわれている。

蛇の枕石(夜泣き石)もある。その昔大蛇が女蛇恋しと毎夜枕にして泣き、その恋を成就して竜神となり、天に昇ったといういわれがあり、「恋愛成就」「夜泣き封じ」の霊験があるという。

境内には、男根型の石柱となしている猿田彦、山津見神社、稲荷神社、疫神社、八雲社(祇園社)、宮地嶽神社などがある。

【ご利益】
安産、子安成長、福徳長寿、厄難除け、交通安全(公式HP
篠崎八幡神社 - 神功皇后が大石に立たせた皇子が「穴門は近し」と発した社、飛鳥朝創建
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篠崎八幡神社の御朱印