本殿が隠岐の西ノ島最高峰の山腹の岩窟に半ば埋もれるように鎮座する航海神
[住所]島根県隠岐郡西ノ島町美田1294
[電話]08514-6-0021

焼火神社(たくひじんじゃ)は、島根県隠岐郡西ノ島町、隠岐諸島の島前の西ノ島における最高峰、焼火山の8合目あたりにある神社。焼火権現とも。近代社格では県社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

大日孁貴尊(おおひるめむちのみこと)を祀る。江戸期には、『島前村々神名記』に「手力雄命左陽、万幡姫命右陰」とあり、伊勢の神宮(伊勢神宮)の皇大神宮と同様の3座だったが、明治初頭に1柱を祀る現在の形になったという。

『焼火山縁起』によれば、一条天皇(在位:986年-1011年)の時代、海中に生じた光が数夜にわたって輝き、その後のある晩、焼火山に飛び入ったのを村人が跡を尋ねて登ると薩埵(仏像)の形状をした岩があったので、そこに社殿を造営して奉斎した。

また、承久年間(1219-22年)のこととして、隠岐に配流された後鳥羽法皇が漁猟のための御幸を行った際に暴風に襲われ、御製歌を詠んで祈念したところ波風は収まったが、今度は暗夜となって方向を見失ったために更に祈念を凝らした。

すると海中から神火が現れて雲の上に輝き、その導きで焼火山西麓の波止(はし)の港に無事着岸、感激した法皇が「灘ならば藻塩焼くやと思うべし、何を焼く藻の煙なるらん」と詠じたところ、出迎えた一人の翁が改善を指摘。

驚いた法皇が名を問うと、この地に久しく住む者であるが、今後は海船を守護しようと答えて姿を消したので、法皇は祠を建てて神として祀るとともに、空海が刻むところの薬師如来像を安置、以来山を焼火山、寺を雲上寺と称するようになったという。

焼火山はもともと大山と呼ばれ、古来より、北麓に鎮座する大山神社の神体山として信仰の対象だった。焼火山に焚かれた篝火が夜間の標識として航海者の救いとなったと考えられている。修験者によって修験道の霊場ともされた。

焼火山大権現と称し、江戸期になると、多くの寄進があり、社領10石を有し、北前船の盛行により、日本海岸の港はもとより遠く三陸海岸は牡鹿半島まで広く航海安全の守護神としての信仰が広がった。

初代歌川広重『六十余州名所図会』、二代目歌川広重『諸国名所百景』、葛飾北斎『北斎漫画』第7編「諸国名所絵」などにも当社は描かれるようになる。

焼火社、焚火社、離火社(いずれも「たくひ(び)のやしろ」、または「たくひ(び)しゃ」)などとも呼ばれたが、明治の神仏判然令で現社号に改称。長らく無格社とされたが、大正7年(1918年)に県社に列した。

社殿は焼火山の南西側山腹、東西に長い境内地の東端に位置し、本殿は山腹の岩窟に半ば埋もれるように構えられ、本殿と拝殿が通殿を介して接続する複合社殿。国の重要文化財に指定されている。

和船の1種で、長さ20尺5寸最大幅3尺のトモド1隻が国の重要有形民俗文化財に指定されている。江戸期から、かつては隠岐諸島に存在した船舶の大部分を占めた主流船だったが、現在までに現存するのはこの1隻となっている。

例祭は7月23日。社務所を神楽庭として県指定無形民俗文化財である隠岐島前神楽が舞われる。旧暦12月大晦日には龍灯祭が斎行される。創祀の契機となった海上からの神火の発生にちなむもの。

島前の各集落がそれぞれ旧正月5日から約1か月の間に適宜の日を選んで参拝し、社務所で高膳(脚つきの膳)を据えての饗応と宴会が催される春詣祭(はつまいり)の習慣が残る。龍灯祭の「年篭り」の名残であるという。

境内社として、明治までの本尊であった地蔵菩薩を祀る雲上宮の他、山神、弁天、船玉、東照宮、五郎王子、金重郎、道祖神がある。

なお、当社は進藤彦興『詩でたどる日本神社百選』に掲載されている。

【ご利益】
航海安全、水難除け、交通安全(公式HP
焼火神社 - 本殿が隠岐の西ノ島最高峰の山腹の岩窟に半ば埋もれるように鎮座する航海神
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焼火神社の御朱印