ヤマトタケル墓に比定された古墳付近に明治期に創建、式内二社を合祀
[住所]三重県亀山市田村町1409
[電話]0595-85-1533

能褒野神社(のぼのじんじゃ)は、三重県亀山市田村町にある神社。近代社格では県社。参拝すれば、「日本武尊本宮」などとある御朱印を頂ける。

主祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)で、子の建貝児王(たけかいこのみこ)と妃の弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)を配祀する。

『古事記』にもあるように、日本武尊は能褒野(能煩野、のぼの)で死去した(『古事記』該当部分)。墓は『延喜式』諸陵寮にも「能襃野墓」と見えるが、後世、所在不明となった。

一帯には日本武尊の陵墓と伝えられる古墳がいくつかあったが、明治12年(1879年)に「王塚」あるいは「丁字塚」と呼ばれていた前方後円墳が、内務省によって「能褒野墓」に治定された。

現在の能褒野王塚古墳である。もともと亀山には忍山神社があり、当社にも配祀されている弟橘姫命について、その祀官であった忍山宿禰の娘であるとの伝承が遺る。

その後、地元の有志により日本武尊の遺徳をしのぶため、能褒野陵周辺での神社の創建が企画されたのが、当社の淵源になる。

明治16年(1883年)に神宮祭主・久邇宮朝彦親王より現社号が選定され、明治17年(1884年)3月に能褒野陵の側に神社創建の許可を得、有栖川宮その他の宮家から幣帛料をたまわった。

明治28年(1895年)に社殿が竣工され、神宮祭主・賀陽宮邦憲王より御霊代を拝戴して鎮座祭がとりおこなわれた。

明治42年(1909年)には元小天宮御祭神の弟橘姫と県主神社御祭神の建貝児王が配祀され、さらに近隣の約40社が合祀された上で、村社に列した。

合祀されたものの中には、『延喜式神名帳』伊勢国鈴鹿郡にある「那久志里神社」「志婆加支神社」の二つの式内社が含まれる。

「志婆加支神社」の論社は他に、津市芸濃町の明神社、市内の亀山神社に合祀されたものがある。また、県主神社も式内論社で、他の論社に椿大神社の境内社がある。

その後、大正14年(1925年)6月に県社に昇格した。例祭は10月8日。

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能褒野神社の御朱印