仙台湾・垂水山、『かんなぎ』で参拝者急増、沖合海底にある神社が奥の院
[住所]宮城県宮城郡七ヶ浜町花淵浜字誰道1
[電話]022-362-0732

鼻節神社(はなぶしじんじゃ)は、宮城県宮城郡七ヶ浜町にある神社。松島湾と仙台湾を分ける七ヶ浜半島の東端、仙台湾側に面した垂水山(たるみずやま)に鎮座する。

海上安全の神徳により航路の守り神として信仰されている。『延喜式神名帳』にある「鼻節神社(陸奥国・宮城郡)」に比定される式内社(名神大社)。近代社格では村社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

御祭神は岐神(ふなどのかみ)としての猿田彦命。元文3年(1738年)の『鼻節大明神の御縁起』によれば、当社の社名は猿田彦命の鼻が高く、節があったことに由来するという。ただし、御祭神には諸説ある。

社伝によれば、 鹽竈神社の御祭神と同神が神代に存し、御舟にて鼻節浜に上陸、第6代孝安天皇の時代に「ほうが崎」に鎮座、第34代舒明天皇2年(630年)に初めて圭田43束を奉り神事を行ったという。

その後光仁天皇の宝亀元年(770年)、ほうが崎は風が強く、度々社殿が破損したので現在の鎮座地である垂水山に移ったとされる。

『続日本後紀』の承和11年(844年)8月17日条では、霊験ありとして無位から従五位下へ神階を陞叙せられた。

『枕草子』に出てくる「はなふちの社」は当社を指し、その杜が「活田の社」や「龍田の社」などの名社と共に数えられていることから、都人にも知られ、朝野の崇敬を受けた神社であったとする説がある。

さらに『朝野群載』には、神事の過穢が原因で祟りがあったため、当社に使者を遣わし、中祓を科して祓え清めるべしとの康和5年(1103年)6月10日付けの神祇官奏上が記載されている。

鎌倉時代に入り、陸奥留守職に任じられた留守氏の家臣で、陸奥国府(多賀城)の主厨、花淵城主でもあった土豪花淵氏累代による尊崇があり、社殿の造営や祭事の興行がしばしば行われていたという。

その後、多賀国府も有名無実となって花淵氏も当地を去ったために当社も衰運を辿り、鹽竈神社の末社とされた。

仙台藩四代藩主伊達綱村が元禄6年(1693年)に編纂させた『鹽竈社縁起』にも当社が鹽竈神社の末社であると記載されている。

明治元年(1868年)に社殿を修復した際、境内において、陸奥国府である多賀城で使用されていた国府厨印(こくふくりやのいん)が発見された。現在は町指定文化財。

明治5年(1872年)5月に村社に列し、明治40年(1907年)3月には神饌幣帛料供進社に指定された。明治10年(1877年)3月に改めて国幣中社としての志波彦神社・鹽竈神社の摂社に定められた。例祭は旧暦9月28日。

2008年-2009年頃、人気漫画およびアニメ『かんなぎ』に出てくる神社のモデルが当社ではないかとファンが推察し、参拝客が急増、日本各地のみならず、香港など海外からもファンが参拝に訪れたという。

境内社に境内には八幡神社、大根神社、山神社、三月田稲荷神社、天神社がある。

大根神社は東西、あるいは左右宮があり、花淵崎の東沖7キロの海底にある南北2.5キロ、東西2.5キロの大根岩岩礁を境内とする。海底にある同社は当社「奥の院」とも呼ばれている。

旧暦6月1日には、潮流激しい沖合い境内の海底に潜って社殿付近からアワビを取り、その中で最大のものを新鮮な神饌として遥拝所に御供する神事「大根明神祭」が行われる。

海底、貝など、当社御祭神との関連や、その本宮ともされる伊勢の二見興玉神社や夫婦岩、その先の興玉神石を連想させる。

【ご利益】
海上安全、航路の守護神、大漁満足・商売繁盛
鼻節神社 - 仙台湾・垂水山、『かんなぎ』で参拝者急増、沖合海底にある神社が奥の院
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鼻節神社の御朱印