崇神朝の創建と伝わる、江戸期には上田藩の崇敬厚い信濃国総社の古社
[住所]長野県上田市常入字上常田723-1
[電話]0268-27-5018

科野大宮社(しなのおおみやしゃ)は、長野県上田市にある神社。信濃国総社で、近代社格では県社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

主祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)。相殿神が健御名方富命(たけみなかたとみのみこと)。例祭は10月15日。

社伝によれば、第10代崇神天皇の御世に神八井耳命の孫・建五百建命(たけいほたけのみこと)による創建という。天武天皇の御世に神地の下賜があり、天平年間(729年-749年)には官祭執行の儀があったともいう。

信濃国府は古来上田市にあったとされるが、平安時代初期に松本市へ移されたとされる。松本市に移ってからの総社は、伊和神社とされる。

上田市の国府は神科台地上と推定されており、当社は国司が参拝する総社であったとする説がある。なお、付近には信濃国分寺跡・信濃国分尼寺跡も残っている。

天慶元年(938年)の平将門の乱において、将門勢は、平貞盛の軍と国分寺と千曲常田河原に於て戦い、そのため国分寺諸堂と大宮社の社殿楼門神庫及び附近の民家数百戸を戦火により焼失したと伝わる。

当社は古来「総社大宮」「科野国魂神」と称したといわれ、中世には「大宮諏訪大明神」と称したと伝える。

文治年間(1185年-1190年)、常田庄八條院暲子内親王は大華表を鳥居場に建て、当社に奉納したという。また、康安2年(1362年)、関東管領足利基氏は彗星の出現につき、天下の安全を当社に祈り、その願文を奉ったという。

この頃の当社の社域は東西六丁 南北は八丁と記され、約13万余坪と推定され、往時の壮大かつ宏大な大社の面影が偲ばれる。

真田氏による上田城築城以来、当社は城の鎮守と定められ、信濃国分寺三重塔と当社は藩費をもって修繕したという。寛文9年(1669年)頃の城下町古地図には「常田村大宮」とある。

上田藩の修繕に関して、棟札と社伝に宝永7年(1710年)、正徳4年(1714年)、元文2年(1737年)、明和3年(1766年)、安永9年(1780年)の70年の間に5回、記録されている。

明治に入り、県社に列し、現社名に改めた。

境内には大木が何本も立っており、社叢は市指定天然記念物に指定されている。現在の社殿は、万延元年(1860年)の上田城主松平忠礼の再建によるもの。

境内社の六所明神と駒形稲荷社は、天正年間(1573年-1593年)の築城の際に上田旧城地から当地に移されたと伝える。

【ご利益】
縁結び、商売繁盛、武運長久、諸願成就
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科野大宮社の御朱印