対蝦夷用の城輪柵や、出羽柵の鎮守として古代に崇敬された、出羽国二宮
城輪神社(山形県酒田市城輪字表物忌35)
[住所]山形県酒田市城輪字表物忌35
[電話]0234-26-5777

城輪神社(きのわじんじゃ)は、山形県酒田市ある神社。出羽国二宮で、近代社格では県社御朱印の有無は不明。

創建年代は不詳。創祀はともかく、城輪柵の建設された和銅元年(708年)から霊亀2年(716年)の間に創建されたのではないかと思われる。

安永4年(1775年)に社司により書かれた縁起『二宮古今記』によれば、当社は第12代景行天皇の御宇に鎮座したとしているが、安政6年(1859年)に書かれた『五百津鉏』では「景行天皇御宇云々と有れど信難し」とある。

昭和6年(1931年)5月に城柵址が発見され、当社の位置が柵の北辺、北門と東北隅の間にあたることが分かった。城柵の周輪に祀られていたことが城輪神と呼ばれた所以だと考えられている。

また、城柵の東北方向に蝦夷が最も多く、この方向からの襲来を考慮して城柵も北側に厳重な工事が施されており、城柵の北辺に祀られた城輪神は蝦夷の綏撫征伏を祈願した出羽柵の鎮守であるとされる。

『二宮古今記』は、御祭神の城輪大明神は倉稲魂命のことで、鳥海山大物忌神社と同体であり、第31代用明天皇の御宇に鳥海山大物忌神社を一宮とする題額の宣旨が給われた頃から当社は二宮と称するようになった、二宮とは第2王子のことである、としている。第3皇子とされるのが、三宮である小物忌神社である。

『延喜式神名帳』には記載されていないが、『日本三代実録』貞観7年2月27日(865年3月28日)条に「出羽國正六位上城輪神」を従五位下に昇叙したと記載されており、さらに元慶4年(880年)2月27日条には大物忌神、月山神、小物忌神と並んで更に神階が昇叙され、従五位上に進んだことが記載されている国史見在社

元慶4年は秋田城をめぐる元慶の乱が終息した頃のため、当社はこの乱についての霊験によって報賽を受けたものであろう、と考察している。

『二宮古今記』では、往古は大伽藍で、広大な社地社領の寄付や社人社僧の奉幣に預かり隆盛であったとしている。しかし、当社の記録はこれ以降ほとんど空白になり、慶長年間(1596年-1615年)の最上義光の社領寄進にも漏れたという。

江戸時代に入り、棟札から元和元年(1615年)に御堂が建立されたことが分かっており、その後、修験本学院が別当になった。また、庄内藩主酒井氏により復興され、宝永年間(1704年-1711年)と天保年間(1831年-1845年)に幣帛料が寄進されたという。

『山形縣神社誌』によれば、明治6年(1873年)1月16日に社殿が炎上した。社殿は翌7年(1874年)9月に再建されるが、この時の火災により、表面に「城輪」、裏面に「天徳四年五月宮御」(天徳4年は960年)の墨痕がある、勅額と言い伝えられる木片も焼失。

明治9年(1876年)2月24日には村社となり、翌10年(1877年)、国幣中社鳥海山大物忌神社の摂社に指定された。明治15年(1882年)に永代講中が結成され、今日に至っている。また、明治27年(1894年)10月22日に庄内大震災に罹災し社殿が半壊するも、同年内に解体、翌28年(1895年)には元通りに再建された。

大正5年(1916年)4月20日に供進社へ指定され、昭和7年(1932年)3月9日に県社に昇格。昭和41年(1966年)には本殿屋根を銅版葺に改修、昭和52年(1977年)からは氏子の子供たちによる神子舞の奉納を行うようになり、現在も続けられている。

例祭は8月17日。主な神事として御頭神事がある。

【ご利益】
地域安寧、方除け、悪霊退散など
城輪神社 - 対蝦夷用の城輪柵や、出羽柵の鎮守として古代に崇敬された、出羽国二宮
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